ちゃちな作りのヘッドフォンが動いた拍子にずれ落ちかけ、それを防ごうと片手を頭にやる。いい具合の位置をみつけるまで、何度となく動かした。
正面の画面にはウサギとリスがいる。もう見慣れた光景で、それは日常といっていい時間の過ごし方といっていい。5年前の出来事のおかげで、健二は一人で過ごす時間が減った。
健二にとって佳主馬は得難い存在だ。近しいが、親友、ではない。親友というのは、佐久間とのようなことを言うのだろうし、そうではないから親友とは言えない。
モニターにいるウサギをつんっとつつく。
物質である指が通り抜けるわけがないので、液晶の光は押された分だけ色をなくした。
人差し指で半分以上隠れてしまう大きさのウサギ。健二のリスと大差ないサイズで並んでいるのは微笑ましい。
佳主馬がプライベートで使っているのは小さなウサギだ。キングと呼ばれている長身のアバターはスポンサーと結んでいる契約の為、行動に縛りがあるのだと言っていた。
健二にはおぼろげにしかわからない話だったけれど、色々としたことが大変なのだということ判った。それが佳主馬が選んでいる道だ。応援をしたい。
しかし大切な友人が歩んでいこうとしている足場を整えることなど、望まれてもおらず、そんなことはしたくもない。横から手を出すのは筋が違うし、同時におこがましい。
だけど、それでも役に立つことが健二にあるのならなんだってやりたい。いわば、家族のように。
「ねぇ、聞いてる?」
イヤホンから声がする。
柔らかな色彩のオズでウサギとリスが並んでいるのはまるで絵本の世界。
ウサギは赤いジャケットと、どんぐり型のペンを首からさげていた。
リスはドングリのシャツと、ゴーグルを頭に装着していた。
似合っていると言えば似合っているし、けれどそれぞれの持ち物が主人を変えているのが不似合いといえばそうだった。
「聞いてる聞いてる。だけどさ、やっぱり交換やめない?」
「なんで? それいや?」
不思議そうな声音とウサギのハテナエモーションに、見えていないことは承知で苦笑を浮かべリスを操作した。焦ったようなエモーションが飛び出る。
感情表現だけで意思を通じさせることが出来るのもオズの特徴だ。現実で会話を交わすとき表情が大きな意味を持つように、オズでは感情表現であるエモーションが重要な役割を果たす。
「価値ってか……なんか、釣り合わなくない……?」
「釣りあ、え、価値?」
「トレードセンターのさ、相場載ってるやつあるじゃない」
「ああ、市場か。あんまりそういうの知らないんだよね使わないからああいうの……」
佳主馬が少し考えるように唸った。短い時間があく。
その間にたたんっとタイピング、リスを自律モードへ移行。
「……それだとそうなるかも。そのゴーグル、限定シリーズだったし。でもさ、そんなの言っちゃえば電子データだよ健二さん」
まるんっとした大きなしっぽを抱き寄せる。ふわりと浮いた。重力などオズにはない。くじらは不在。多くのアバターが健二たちと同じよう、会話に花を咲かせていた。
「それをきみがつけてるって時点でぼくのなかでプレミアつくんだよ。限定云々じゃなくてね!」
「そう言われても……。俺はこれ欲しいし。だから交換したいし」
ウサギが首のドングリをかかげて見せた。不貞腐れたような佳主馬の声。
「そんなペンを?」
「うん。健二さんのドングリ」
「いやまぁドングリだけど、シャツとお揃いで。だから買ったんだけど……でもウサギに?」
「好きだもん」
「そう、だっけ? どっちかっていうとニンジンとかじゃないの、ウサギって」
そう言うと、笑い声がする。イヤホンを通しての会話だから当然だが、耳元で響く柔らかな音。まるで隣にいるような距離だ。
「まぁ、似てるし、リスもウサギも。好きだよ」
「いやでもきみが持つとたかがドングリがレアみたいだ。モールに行けばあるのに」
「健二さんが買ったのとまったく同じのはないよ。交換だからいいの」
「そ、そう? きみがいいんならぼくはそれでいいんだけど。キングとお揃いのゴーグル嬉しいし」
「おそ……ッ、ゴホッ、えっ?」
「大丈夫? だってそれつけてるよね。二つあるのかーって思ってたんだけど」
「………そう、だね。そうだよ、うん、キングと一緒だそれ」
初めて気づいたといった様子の佳主馬に思わず笑うと、佳主馬も釣られたように笑い出す。
リスは機嫌良さそうに宙へ漂い、ウサギは尻尾を掴んで引き寄せた。
「あ、そうだ」
「ん?」
「今度ね、東京に行くよ」
「え、そうなの? いつ? なんかあったっけ? 時間合うようなら遊ぼうよ!」
驚いて矢継ぎ早に質問を浴びせて、最後は嬉しさがあまりの勢いで飛び出た。
「まだ日程は決まってないんだけど、たぶん、ゴールデンウィークに合わせてだと思う」
「ああ、休みだから?」
「それもあるけど、マーシャルアーツの公式戦あるから」
公式戦のスケジュールを思い出す。
ある程度は定例化されており、予測は立てやすい。
マーシャルアーツの公式戦にも種類は様々で、基本的に彼は自宅から参加している。その上でわざわざ東京へ来るというのなら、それはなにか特別な大会があるのだろうか。
5月。5月? マーシャルアーツ好きな親友の発言が記憶からクローズアップされた。
「もしかして世界大会?」
「うん、よく知ってるね。そうだよ。だからゴールデンウィーク」
ばんばんっと机相手に力強くヒートアップしていた佐久間に感謝した。そこまでのアクションがあったから健二が覚えていたにすぎない。マーシャルアーツはもともと佐久間が好きだった。健二はそれを見て、キングを見て、マーシャルアーツが好きになっただけだし、きっとキングがそのときにいなければ元々得意ではなかった対人競技にこんなにも興味を持たず、憧れすらしなかっただろう。知らないということはそういうことだ。
「でもあれってランキングに合わせた勝ち抜き戦だった、よね? それなら佳主馬くんの出番って5月じゃなくて8月くらいじゃないの? 前もそうじゃなかった?」
「本戦はそうだけど、キングだからね、最初にタイムアタックやるの。あと東京に出るついででスポンサーのところに挨拶廻りして、雑誌の取材も受ける」
「……いくつだっけ、佳主馬くん」
「ぴっちぴちの高校一年生。あと三ヶ月もすれば二年だけど」
「ぴちぴち?」
「歳なんて健二さんから4つ引けばいいだけなのに」
「いやぁ、きみのやってることはすでに年下の領域じゃないよ。ぼくのその頃とか……」
「高校二年で数学オリンピックの代表とか、そっちのがありえなくない?」
「なり損ねだから。なり損ねてるから!」
「うん。御愁傷様だけど、俺は良かったかも。そうじゃなきゃ健二さんあのとき居なかったかもだし」
「そうかもねぇ。代表だったらオズのバイトだってしなかったし、そしたら夏休みに夏希センパイの………ん……? あれ?」
鮮やかで忘れられない夏を辿っていて、違和感を感じた。あまりにも自然だったから流していたが、比べてみると違う。
「……なに?」
「え、いや、佳主馬くん、……俺って言ってたっけ?」
ウサギにリスがおもちゃにされていた。ぐにぐに。情報で構築されている自身はやわらかな弾力に富んでいる。
「最近かえた。ちょっと心機一転」
佳主馬の声はすとんと胸の奥へよく通る。
声だけではなく、動きもそうで、だからこそ彼はキングだと称されているのだと思っている。が、その強みがここで発揮されたことへ首を傾げた。
そんなふうに意思をこめて言うようなことだっただろうか。
「なんかあったの?」
「っていうか、仕切り直し? ある意味リベンジ挑んでる途中なんだけど」
「勝負中ですか」
「うん。勝ちたいんだけど、どうなるかな」
「そんなのぼくに言わせると佳主馬くんが勝つよとしか」
「ま、そうだよね」
言いたいことはそれも含まれるけれど、もっと相応しい言葉がある。陣内一族すべての人に言えるし、彼らにこそ似合う言葉は、自分が勇気づけられた大切なものだ。
「でもぼくが言えるのは、まぁ……言われなくったって知っているだろうけど。諦めちゃだめだよってことくらいしかないんだよねぇ。いまさらぼくが言うようなことでもなくてあれだけど。いや、でもそっか。俺って言うのかぁ」
「健二さんからそう言われるのが一番嬉しい。そんなに変?」
「おかしくはないんだけどね、なんかかっこいいし。だけど時間の変化をまざまざと見せつけられた気分です。このまま彼女できたよとか言われちゃうのかなとか。まぁ、当たり前なんだけどきみも成長しててさ、いやほんとうに当たり前なんだけど。でも僕の知らない佳主馬くんみたい。呼び方一つなのにね。なんていっていいかわかんないんだけど。……変なことを言っているのは解ってるんだけど、なんだろうねぇ」
言いながら自覚した。
寂しいのだ。置いていかれているようで。
「ふぅん」
いたたまれない沈黙が訪れて、オズの発言欄に「ああああああああああ」と打ち込んだ。現実からログアウトしたい。かといってオズへログインしたいわけでもない。リスとウサギが住む世界は魅力的であるが、ウサギは都合がつけばリスのそばに居る節があるので、つまり現実からの逃避はオズであっても適わない。
「ごめん忘れて欲しいなーなんて……」
「やだ、忘れてなんかやらない」
がっくりと肩が落ちて、こういう気持ちでこうなるのかと片隅でこっそりと学習した。
ふっと息が抜けるような笑みを含んだ優しい声が続く。
「……どっちにしたって僕は僕なんだけどな」
「ですよね、はい。よく分かってます。だけどぼくの知ってる佳主馬くんは違うかったし、もうなんかほんとごめんなさい」
子どもじみたことを言っていると分かっているので、だんだんと言葉尻が小さくなる。
「ま、呼び方にこだわってたわけじゃないし。そこはもうなんだっていい。ただちょっとした意思表明で……。そっか。健二さんの知ってる僕じゃなくなるのか」
もう何も言えない。黙々と打ち込んでしまった意味不明な文章を消しさる。するとそこにはすっきりと奇麗な空白欄。
「まぁ、それはいいとして。都合の悪い日ないの?」
「え?」
唐突に言われて何を指しているのか分からず、佳主馬の台詞を飲み込めないまま答えた。
「東京行くって言ったら遊ぼうって健二さんが。ねぇ楽しみにしてるんだけど」
今度はもう少し具体的に指される。
「? あっ」
「忘れられてなくてよかった」
からりとした笑いとともに言われてばつが悪い。目が泳ぐ。
「……そんなことあるわけないよ。ないない。ええと、今のところは特にないけどきみは大丈夫なの?」
「うん。平気。大会の日はちょっと厳しいかもしれないけど健二さんこそどうなの? また忙しくなったりしない? 大学生のカリキュラムってわかんないし」
「ん、なくても時間作るよ。きみと会うほうが大事」
「……健二さんってあれだよね何も考えてなくてそれだよね」
「なにが?」
「なんでもない。また詳しいことがわかったら連絡する。いいよね?」
「楽しみにしてる!」
「僕、も」
「ハハ……」
ウサギがリスを高く放り投げた。
イヤホンは遠くの佳主馬のタイピング音さえ拾う。
だからウサギはマニュアルで、リスはオート。
「佳主馬くん、ぼくボールじゃないから。まるっとしてるけど違うからね?」
危なげなくキャッチをされる。
アバターの制御はタイピングがすべてで、複雑な動きをしようとすれば打ち込む速度は速くなる。落ちてくる物体を抱きとめるというのは、タイミングを計り実行しなくてはいけない。この単純な動作を可能とする指示は複雑で、佳主馬はそれを難なくこなす。
「ボールに好きって言えないよ僕もさすがに」
「ドングリ?」
リスは嬉しそうに弾んでみえた。