始まる目眩始めた 2

 

 

 瞼を通りこし眼球を柔らかく刺す眩しい光で目が覚めた。薄く目をあけると、薄暗かったはずの書斎に明るい陽光が差し込んでいる。早春の光に手をかざして遮り、上半身を起こして軽く頭を振った。眠りに落ちるまで足置きと化していたパソコン本体の位置を確認すると、奥へずれこんでいたので両手で引っぱり戻す。黒い表面を彩る色とりどりの絵の具は凝固してしまっていて移りようなどないが、そのわずかに突起した感触が手に残った。
 ぼんやりとした頭に浮き上がりかかるなにかを無視して立ち上がり、畳の上で寝入ってしまったばかりに痛い節々を伸ばす。
「……ほんっとに、さ」
小さく振り切るように呟き、部屋をでる。
わずかに春の暖かみを感じさせる気温と、夏ほど鮮やかではないが春らしい柔らかな青空が見えた。

 

 静かな板張りの廊下を、武道を習得しだした頃に意識して今ではもう癖になった歩き方で進み、炊事場へ覗き込むよう顔を出した。
着物にエプロンをかけた万里子がとんとんと包丁の音を響かせている。
「おばさん、おはよう」
「おはよう佳主馬。いつもより遅いわね。今日は人が来るわよ」
リズムが刻まれていた包丁が止まり、万里子がエプロンで手をぬぐいながら振り向いた。
「ずっとやってたのキリがいいとこまでと思ってたら空が白んでて、だからもうそのまま起きてようとしてたんだけどいつのまにか寝て、た、んだ」
話をしている最中にも構わず出ようとしたあくびを噛み殺し続けてどうにか言い終わってから眠気を吐き出すように解放したが、けれどまだ体内に残る。
「あらあら大きな口ねぇ」
呆れたような声に、動作だけで頷き返す。涙がにじんだ。
「誰か来るの?」
「ええ、何時頃になるかしら。佳主馬は朝ご飯ですよ。すぐに準備しますからね、テレビでも見てお待ちなさい」
「ん、人が来るならさきに朝練してくる。ゆっくりでいいよ」
両手を上へのばし、戻しついでに肩をぐるりと回すと筋肉が伸びた。徹夜に近いことをしたしパソコンの前にいることも多いが、筋肉を効率よく動かす術と毎日の鍛錬もかかさないためにさほど酷い凝りではない。若干の気怠さは体を動かすことで吹き飛んでいく。
「あらそう? じゃあ出来たら呼ぶわね」
「うん」
言ってまた青菜を刻み始めた後ろ姿を見て、柱へもたれた。来客があるというわりには、万里子の姿は普段どおりだ。
カチリと鍋が乗っているガスコンロに火がついた。
「なに作ってるの?」
「日持ちしそうなものよ。あと梅干しも準備して……、なにが好きかしらね。なんでも美味しそうに食べていたように思うのだけど」
「ふーん?」
 このよく使い込まれた台所で誰かしら調理をしている姿を見て成長してきている。たぶんそれは自分だけに限ったことではなくこの屋敷が、陣内家ができたころからずっと。本家はなんらかの形で繋がる人々が集うところだ。血脈に限らず親しい人が集まる。
 久しぶりの回想は眠りに落ちる前だった。想起の鍵は本家。思い出さずにいようとして、そのくせ思い出を辿るように本家を訪れている。離れようとしていて、なのに近づいていた。
「佳主馬?」
それは、どういう意味を携えて迫ってきているのか。理解できるところで憧れ羨み、理解の外にあるのは願いの果て。それはなにを意味するのか。
 すこしだけ昨日の続きを考える。
線、ライン、境界線。あるだけで明確に区分する様々な仕切りは、そうと意識してみればあちらこちらにある。
たとえば、マーシャルアーツは友人がいつか零していたように戦闘AIのパターンからして複数あり、どれだけのキー操作でカズマを操っているか分からない人にはそれがラインだ。
佳主馬からしても細かったり太かったり高さがあったり色々とあるなかに、いまだ見えぬ一線、いまにも踏み外しそうな一線がある。見たいものと、見てはいけないもの見ないもの。それらを区切る線に囲まれている。この世界は線だらけだ。
「どうしたの? 立ったまま寝ているのかしらねこの子は」
動かない佳主馬に万里子が包丁を扱いながら訝しげな声をかけた。
怪訝さのなかにも徹夜明けの佳主馬を労るような優しさにあふれている。
「侘助もよく佳主馬みたいなことをしていたんですよ。あんな大きなのじゃなくてもっと小さな箱にむかってカチカチと。まぁ、あの子はそんなことをした日には起きてきませんでしたけどね」
茶化すような口調に笑いがこぼれて、答えた。
「……起きてるよ、ちょっと考えてただけ。いってくる」
思考はひとまず置いておいて、朝練を、いつもの毎日を続ける。まだ続けられる大丈夫。

 

 冷たい水で顔を洗ってから大広間の縁側から靴を履き、庭へ出た。肌寒さが身を襲うが、引き締まるような感覚でそれが気持ちいい。春。新しい季節。芽吹く季節だ。
 裏庭の方へ回ろうと柔らかい草の上を歩くと朝露で足下が少しぬれた。
大半が木々に隠れてしまった屋敷に、見慣れて親しみ深い屋敷に、始まりの場所だと特別な感情を抱いたのはいつからか。そうよぎった思考はなんの気なしに手をまわすことで振り払った。
 目的としていた場所まで来ると、足を止めて大きく息を吸い込む。
新緑の匂いが混じった冷たい空気が体内に入り、寝不足気味でぼやけていた意識がすっきりとしてはっきりと目が覚めた。
 集中しようと一点、ちょうど一直線上にあった幹を見つめて教わった型を一つ一つ丁寧にこなす。
手足の先に繋がっている神経、血液が体内を巡る流れを、意識する。そのうえで周りの空気の流れを感じる。
すべての神経を意識し、型から型へ移行する。一つの動作に込められた意味を考え理解し、また次の動作へ繋げる。
どれほどそうしていたか、ふとバイクの排気音が近づいてきていることに気づいた。
続けようとしていた型の動作をやめ、額にじわりと薄く汗をかいていたのでシャツの裾で拭う。
低いバイク音は陣内家の門の前で止まったようだった。
「……新聞配達、かな」
それにしては少し遅いような気もする。万里子がいっていた客だとするなら人の家を訪れるに適した時間と言えず少し早いような気もする。ならば近所の住人が朝からお裾分けというお題目で世間話を万里子としようと来たのかもしれない。
しばしどうするか考えて、誰だとしても出迎えるために音がやんだほうへ向かった。

 木々の間から風を通しにくそうな素材のジャケットを羽織った人影は、それなりに若そうな男性の後ろ姿だった。
佳主馬の知る近隣に似た人が居なかったように思うから、万里子が言っていた客なのかもしれない。
「誰。なんか用?」
「あ……っれ? 佳主馬くん?」
振り向く姿がとてもゆっくりに見えて、自分の目が驚きで見開いて行くのが他人事のようによくわかった。なにせ驚きすぎたために、なんでというように指差してそれでいて声が出なかったからだ。
「わ、ほんとに佳主馬くんだ。久しぶりだねぇ! あ、でもなんで居るの、春休みだから?」
うんうんと何度も頷いて同意を示して、最初の音の発音に失敗しながら答える。
「そっ、……そっちこそなんで?」
「ぼく? 軽井沢に教授の別荘があってね、佐久間と呼ばれてたの。そんでそう万里子さんに言ったらせっかく近くまで来ているんだから顔見せにおいでなさいって言われて、まぁ早く着きすぎたんだけど。道もすいててまた佐久間が飛ばすから。あいつは絶対スピード狂だよ乗せてもらってるから文句いえないけどさ。でもまさか佳主馬くんが居るとは思っていなかったからびっくりした。忙しいっていってたけどもう平気なの?」
「……忙しい? 僕が? お兄さんじゃなくて?」
「うん。前にメールで言ってなかったっけ? ぼくみたいなこと言ってるなぁと思ったから覚えてたんだけど」
メール、メール。メール?
記憶をなぞると、思い出した。忘れていた訳ではなく意識して触れなかった領域にあったそれには、距離をとらないと思って確かにそうメールをしたとある。それでどうにか考え込むことから解放されたのだ。出来るだけ不自然にならないように答えようとはしたが慌てているせいでしどろもどろになった。
「え、あ、うん、いそがしかった! 受験だったし! あと、うん、仕事とか。あの、今日も新しい組み込みで、それで。家だと落ち着かないし……それに入学前だし」
ただしそれも長期休暇で時間に自由がきくようになった途端、仕事がと理由を付けて本家に来ているあたりあまり意味はなかった。
言ったことに嘘はない。嘘はないが、それだけでもない。
ただあの部屋は、背筋を伸ばしてきちんと出来ることをやりきれるような、そんな場所になっているから新規プログラムに取り掛かるには適していた。中途半端なことはしないのではなく、出来ない。あの部屋におくと決めた万里子を筆頭にした大人の思惑は上手い具合に働いている。
だけど、だ。
なにこのどっきり。聞いてない、聞いてないよ来るとか!
「そうだ、入学祝いもちゃんとあるんだけど居るって知ってたら持ってきたのになぁ。今度でいい?」
「もうオズでお祝いしてくれたじゃん」
「あれだけじゃなくて!」
思いのほか強い勢いに押され意表をつかれた。
「……う、うん、楽しみにしてるよ」
けれどお兄さんの思考のなかに自分があることが嬉しい。じわりじわりと染み込むように、喜びが顔に滲み出る。
「よかった、いらないって言われたらどうしようかとおもってた。へへ」
「ないよ、ないない。今のもちょっとびっくりしただけだし。うれしい、よ」
 佳主馬の言葉に軽く笑うお兄さんは、去年とも夢に出て来たお兄さんとも違う。
去年の別れ際、お兄さんの表情は憑き物が落ちたようにすっきりとしていて、何かが変わったのだろうなとは思ったものの話題には出来なかった。
下手に触れてもう来ないと言われたら、佳主馬がなんと言ったところで中学校を卒業したばかりの自分では重みが足りず覆すことは難しいと悔しいことに分かっている。同じようなことを、例えば。陣内家現当主である万里子言ったとしたら受け取り方が変わることも知っていた。
「それにしても仕事かぁ、すごいねぇやっぱり。もう大人と並んでいるもんね佳主馬くんは」
 いままでどおりにはいかないと、お兄さんが抱えていたものこそが佳主馬の不安の根源で、それに軽く恐怖さえ感じていた。あの夏の敗北に感じたものとは別種の恐ろしさだった。
今はもうそれらも感じ取れない。迷いのない晴れやかな様子からは、鬱々としたものはなかった。
毎年恒例の夏ではなく、春に、いくら万里子に言われたとはいえ顔を見せるためによったという事実が心強くさせる。
「そう、かな? まだまだ足りないものが多くて嫌になるよ」
「ぼくがその年の頃になかったものを既にきみはいっぱい持ってるんだけど」
「でもお兄さんが解けてた数学は無理だよ」
「ぼくの取り柄! それぼくの取り柄だから!」
 今もまた、佳主馬にはどうしようもなかったもどかしい寂しさをどこかに持った表情ではなくて、なにか、そうどこかすっきりとした顔をしている。迷いのないそれは久しぶりに見るものでまぶしかった。
なにかが浮かんだような気はしたが、しっかりとした形になりきる前に近寄った。不思議そうにお兄さんが見てくる。視線は同じくらいで身長が伸びたなと自身を認識した。
 その目を見ながら明け方を思い出す。濃紺を遠くへ追いやる太陽が空へ浮かび主張をはじめた時間だ。
「ね、あのさ」
お兄さんの手を掴んで一緒にしゃがみ込むと、わぁと軽い驚きの声が上がった。握った手首は骨張っていて、だけど細かった。佳主馬の体温が高くて、触れたところからひんやりとした。間違えようもないくらいの男性の手で、だけどそれが離し難かった。
「うん? どうしたの? なんか内緒話しているみたいだねこれ」
比べ物にならないくらいの近さで囁くその声にくらりとする。内緒話という響きが気に入って口元をゆるめた。
「……僕とお兄さんの秘密、だよ」
佳主馬も同じように声を小さくして、人差し指を一本、唇の前で立ててみせる。
濡れたような地面に尻をつけることは躊躇われたので顔を寄せ合ってかがんでいるだけだ。それでも立っている時と違い、草の匂いが濃くなった。
「憧れと好きの違いってなんだとおもう?」
「へっ? 好きと憧れ?」
「うん、お兄さんならどう思う?」
 憧れをいだく気持ちというのは、こういうものだったんだろうか。目の前に居るのは疑いもなく佳主馬の憧れだ。
憧れ? こんな焦がれるような気持ちをその一言で表す?
ただ好きというのとも違う。ではなんという。
「ぼくなら? そういうのは不得意なんだけど、そうだなぁ。ぼくなら、んー」
握っていた手を離した。手が寂しくて手近にあった草をひっぱると抜けた。離すとぱらりと落ちた。
 憧れが嫌いなわけがなく、嫌いでないのなら好きだというのも間違いではない。だって嫌いなら憧れることもこんなに気になることさえないだろう。
「どうだろ、ぼくなら、か。……ぼくが佳主馬くんくらいの頃に憧れていたのは夏希先輩だったよ。憧れていて役に立てるならそれで嬉しかった。パソコンのことだろうとオズのことだろうと頼ってもらえるのは嬉しい。あのときはそれが恋心だと思ったんだけど今にして思えばあれは本当にただの憧れだったんだってわかるしね。だって手に入れたいとか思わないんだもん。幸せなら願えるけど、それだけだったんだもん」
「………」
「ああ、でもね、夏希先輩に連れてきてもらって陣内家の人たちと知り合えてね、きみたち一族の仲にも憧れたし、それでぼくはその憧れているひとたちみんなが好きで……去年の夏にはもっとみんなのことが好きになった。だから好きと憧れはイコールで結ばれるものじゃないかなぁと思っちゃったりする、します。うん」
「それは一緒にしていいものなの? 憧れと好きって」
「数式で言うとさ、答えを求めるにしてもいくつものやり方があるじゃない。学校で教えてくれるのは最短距離の公式だけど別にそれを使わなくったって同じ答えに辿り着いて、それも悪いことじゃないんだけど美しさを感じる感性というのは人それぞれで、最短を美しく思うか数字をもっと散らばめて派手になった式に美しさを見出したっていいわけだしね」
「……数式?」
「うん。ぼくはどっちのやりかたも好きなんだけど、数字をいっぱいいっぱい置かれてさぁ求めろって言われる方が好みなんだよ。やりがいがあるっていうか。でもそれを嫌々ながら解いていく人もいるわけで、じゃあ嫌いなのって聞いたら違うっていうんだ。最短で求めるのは単純明快でいいんだけどそれじゃ面白みに欠ける、だけどその反対は困難だしややこしいのも知ってて嫌なんだけどどうしても惹かれるんだってさ。だからそういうことじゃない?」
暗号のように言葉を隠されていった気分だ。まさか数式の話が出るとは思わなかったが、それはらしいと思う。そうだ、こういう人だ。
「嫌なのに惹かれる」
「嫌いじゃないから惹かれるんだって。ああ、そうだこう言えばいいかな。ぼくもね、マーシャルアーツ、嫌いじゃないんだよ。上手くないけどきみに教えてもらってだいぶマシにはなったし。でもあの初期状態も嫌いじゃなかったんだよ。なにせほら、きみに憧れていたしね」
言われていることがよくわからなくて首を傾げる。
「きみの圧倒的な強さに憧れを抱いてた。あの頃のぼくにはなかった強さ。……4年前にさ、目の前できみの戦い方を見てさらに憧れたんだ。ただ強いだけの人じゃなかったんだなぁって。あれでキングにも中の人がいるんだと認識してなおさらね。その時から今もずっとだ。ぼくは君に憧れているし好きだよ」
 佳主馬の心は、好きという言葉で浮ついてふわふわとし、けれど違うとひらひらり混じり合った。
「以上、です。聞きたいことからズレてたらごめんね。こういうのは佐久間のほうがわかると思うよ。呼ぶ? 門のとこにいるから」
頭をふって否定をする。
 ひらりふわりと混合された気持ちは一つに溶け合って沸き立つ。
ちがうんだ。欲しいのはそういうのじゃない。欲しい言葉はそれじゃない。そういう意味じゃない。
それだって欲しかったけれど、それでいいやと諦めにも慰めにも似た気持ちで思ってはいたけれど、でもだって、本当にその言葉をもらってしまったら心に浮かんだ言葉は一つしかなかった。
それはいらない。それじゃない。
もう一度、頭を左右に振る。振り払うように。それからお兄さんをまっすぐに見た。
「佐久間さん、は」
「うん? 呼ぶ?」
「ううん、お兄さんの、健二さんの考えが知りたかったからいい。……まぁ、数学の話になったときはどうしようかとおもったけど、数字で喩えられなかっただけ良かったとおもうし」
「ぼくからするとアレが一番判りやすいと思ったんだけどなぁ」
焦がれて仕方のない気持ちを憧れという。
焦がれて仕方のない気持ちを好きという。
 誤摩化せていた時間は終わって、必死で踏みとどまろうとしていたラインはたった一言であっさりと踏み越えると決めた。
どうしようもないだろう、欲しいのがそれじゃないだなんて。
「というか、ここで僕と話し込んじゃったけど佐久間さん待ってんじゃないの?」
「待たせてていいよ、佐久間だから。平気。問題ないない」
「健二さんって佐久間さんにはちょっとキツイよね」
「そう? あいつもぼくにきついよ。平気で仕事量増やしてくるしさ。あ、万里子さん、居るかな? それとも畑行った?」
「炊事場にいるよ。僕も戻る。お兄さんご飯は?」
言って立ち上がる。
手を差し出すと遠慮をしながらも伸ばしてきた手を掴んで引っ張りあげた。

 

さぁ春が終わるよ。夏がくるよ。


 

 

 

>>>始まる目眩始めた 3    四ねんめの なつ

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