目眩おいて終わって 5 三ねんめの なつやすみ
人の気配がないこの屋敷は、とても静かだ。
うとうととしていた健二は、そうであることを疑問に思い意識が覚醒する。
閉じていた目をそろりとあけると木目が美しく並ぶ天井が見え、ああ、と現状を思い出した。薄暗く、けれど決して暗くはない明るさと静けさが広間をいつもとは違う空間に見せていて、まるで知らない場所のように思えた。休んでいる健二を気遣ったのか、誰もいないから尚更。
再度目を閉じ、すぐに開いた。
そのままじっと動かないでいると時計の針が進む音や、庭をわたる風が木をざわめつかせて、蝉が息継ぎすらなしで大合唱を響かせているのがよく聞こえる。
だが健二の印象は変わらない。静まり返っている。音が消えたように感じるのは、きっと普段ならば大勢の人の気配がするのに今日はしないからだ。
健二の知らない装いをみせるこの屋敷は、ただそれだけのことで静かさを増しそれなのに優しさを内包させていると健二は知っている。たくさんの人がこの場所で生きてきた。知らない過去、家族の姿、諍いも喜びも全て迎え入れてきた屋敷。健二が眠っていた広間も同じく、様々な場面を見てきたんだろう。
横を向いて開け放された縁側の向こうを見る。子ども達があそんだ水の跡はもうない。
鳴り止まない蝉の鳴き声は夏の音で、照らす太陽の光は触れられるかとおもうほど厳しく抜けるような青空には白い雲が浮かんで太陽の光を受け白さが際立ち、それは夏の空気を感じさせた。なつ。
「知らない場所みたい」
呟き、そろりと身を起こした。しんっと蝉の鳴き声にまぎれることなく静かに響き、音にすることでその気持ちは強まった。
立ち上がり、伸びる。目眩は起きない。体を休めたことで回復ができたらしい。寝癖がついていないかと髪を撫でて枕にしていた座布団を片付けようと持ち上げ、部屋の隅で積まれていたところへ重ね置く。
どれほど眠っていたのか分からないが頭がすっきりとしていた。
(初めて来たときにも似たようなことを思ったなぁ)
3年前にも覚えた心細さを今は振り払おうと髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、光が煌めき暑いだけではない風が吹く庭を見た。その光景に健二は髪に手を掻き入れたまま動きを止めた。池のなか、涼しそうに鯉が泳ぐ。水面近くを赤い鱗がゆっくりと過ぎた。水面が光を反射し、まぶしさに逸らして廊下の先を見た。凛とした空気を漂わせる閉じられたままの障子、そこは仏間だ。ずっと考えていて、答えを出したくなくて目を瞑り誤摩化していたことが頭の中をよぎった。気づかないふりをしてやり過ごそうとしたが、やめた。
しばし無言でその部屋を見て、意を決し健二は歩き出す。
マッチで線香に火をつけて供える。無言で手を合わせる健二の背後では蝉の合唱が続いた。
仏間には古い写真が多く飾られていた。色から判断して、新しそうなものは数枚でその中には栄も含まれている。
若く凛々しい軍服を着た青年や、品よく着物を着こなす老女、または年若い娘、そのときの親族一同でかしこまった姿の記念写真とおぼしきもの。それらをぐるりと見回して栄しかわからず、だからここにある写真はすべて健二の知らない陣内の歴史だと感じた。今はもう居ない人たちで、ここまで繋がってきた人の歴史。途切れない家族の繋がり。
蝉が、なきやまない。
わずかに汗が滲んだ。手で軽くあおぐ。
写真そのものは古くて陽に焼け奇麗なものではなかったが、そこにあるのは確かな家族の繋がりや温かさだ。亡くなってしまったひとをいないものだと扱うのではなく、連綿と受け継がれて来た血脈を誇るように掲げている。
それに触れたいような見てはいけないようなその輪へまざりたく、けれど健二には持ち得ないものを羨む気持ちになってしまい、考えたことへ後ろめたさを感じその為に背を向けて逃げ出したいと主張する心には目を背けた。
ひとり、居住まいを正し栄と向き合う。
そろそろ自分を誤摩化すのも限界だ。
栄へ言いたいことはある。聞きたいことも。どれひとつとして言葉にならないどう言葉にすればいいのかわからない。だから彼女らしい闊達とした朗らかな笑顔を見つめる。健二は真剣に、その写真からなにか聞こえやしないかとまっすぐに見返す。脳裏に浮かぶのは諦めるんじゃないよという栄の声。聞きたいのはそれじゃない。じゃあ、なんだ。
健二は栄と交わした約束を守った。
幸せにできるかい、と言われた言葉は思いのほか絶対的な存在となり、誰よりも家族を大切にする夏の日差しのような芯を持った彼女の幸せは最優先で確保すべきものになった。あの時から三年。時間はかかってしまったけれど、理想的な形に落ち着いた。
そうしたら今度は健二の足場がぐらりとゆらいだ。このままでいいのだろうかと考え、足場は崩れた。
彼女がいたからこそ、陣内一族へ受け入れられていた。
(ぼくはここにはもう来てはいけない、んじゃないのかな)
泣きそうだ。ずっとずっと、考えては打ち消して続けて、でも忘れることも出来ないから限界に近い。
そしてそれでもそれが筋ならば、そこを曲げてしまったら二度と顔向けが出来ない。
(だから。うん。……、でも栄さん、でも)
高い音で鳥が、一声なく。
自然が近い場所だ。ここへきて初めて夏がどんなものかを知ったし、知らなかった家族の形を知った。
栄が『幸せ』なんてそんな言葉を言わなければ、健二は悩まなかった。あの夏がなければこんな気持ちを知らずにすんだ。だけどけっしてなかったことにしたいわけではない。忘れたくもない。大切で仕方のない刻み付けられた思い出だ。
栄と接した時間は短かったけれど、それでも接した時間のなか掴んだ彼女の人間性を鑑みるにあの言葉には健二の幸せも願う気持ちが込められていたと見ていい。彼女はそういう人だ。
蝉が、ぴたりとなき止んだ。
遠い部屋からテレビの音が漏れ聞こえる。
人がいると認識したことで大きな声で叫びたいような、泣きたいような、そんな感情が溢れでようとする。自身の胸元を手で掴み押しとどめて、わめき散らそうとするそれの代わりに息を吐いた。姿勢が崩れ、伸びていた背の力が抜け肩が落ちる。
肺に目一杯の新鮮な空気を流し込み、気分を変えようと足を崩し伸ばして後ろに手をついた。
栄の声がよみがえる。あの時の声で、そのまま繰り返される。暑い夏だった記憶。
健二はあの時から迷えば必ずあの声に背中を押される。では、何を迷っているのか。
(どうすれば)
諦められることなら諦めている。諦めていいことも同じ。では、何ならば悪いのか。何ならば迷わず選びとれるのか。諦めないことで筋が通らなくなり、筋を通そうとすれば諦めなければならない。
蝉が一匹、なく。
ほかは沈黙をまもったままだ。太陽が雲に隠れたらしく、光が陰る。庭を見れば大きな影が覆っていた。
廊下を歩いて近づいてくる音がして、そのまま健二のいる部屋を通り過ぎたが、ん? と声がして、引き戻って来た。
「…あれ、あっちに居ないとおもったらここに居たの」
畳まれたエプロンを片手に持った理香が立っていた。その向こうには雲がずれまた明るく照らされた庭、花をしぼめた朝顔の鉢が見える。
「ええ、はい。ちょっと」
後ろ手についていた姿勢を改めて、前に持ってくる。伸ばした足はそのまま。
「ちょっと?」
腰にエプロンを持った手をつき、健二を向いて理香が立った。ながい髪はまとめられていた。暑いらしい。答えずわずかに微笑んで会釈のように頷く。
「ま、いいけど。もう平気?」
「はい。ご迷惑をおかけしちゃってすいません」
「それはいいんだけどね、それにしてもあんた体力ないわねー」
腕を組んだ理香が頷き言うが、その通りすぎて反論を見つけられない。
「まぁ体力が売りになるようなのはウチにいっぱいいるし、健二くんになくったって困んないわね。誰かがすりゃいいんだから」
「…これでもマシにはなったんですけど」
言い訳をするように、もごもごと口にした。だが多少は良くなったとはいえ、もとがもとであるため知れているのだ。上田に来るようになってから、夏バテもあまりしなくはなった。いい変化だ。
そんな健二をみて、そうね、と瞳に慈しみを込め彼女が頷きを一つ。
「でもね、もうちょっとだけでもあると健二くんが楽しいんじゃないかしら。っていうかね、健二くん体力が欲しいんならしっかり食べなさいよ、少ないわあんた食べる量」
「標準だと思うんですけど」
「了平くらいいかないと」
「スポーツしてますよ、了平くん!」
「あはは、そうだけどさ。ま、うち、筋肉系多いし健二くんみたいなのが居たっていいわ。ん、…侘助は違うわね。いや、あれは体力あるのか。それにほら、迷惑も何もちびたちに勉強教えてるじゃない。あれ大変でしょ、聞かない子ばっかで」
毎朝の恒例となった勉強会を思い浮かべる。確かに嫌そうではあるが、さぼったりはしないし話を聞かないこともない。みんな素直で元気がいい。
そう思っていたことが顔に出ていたらしく、理香が更に続けた。
「あんたが教えるようになってからおとなしく座るようになっているのよ。って、それならさ、冬の休みにでもまた健二くんが来てくれたらあの子らも万々歳なのね」
後半は独り言のような言い方で、そのなかに含まれた内容に健二はぴくりと身じろぎしてしまう。
幸い、理香には気づかれなかったようで、胸をなでおろした。
(どうして、そんな当たり前のように、)
「それで健二くんがここにいるなら佳主馬は?」
「へ?」
「いや、佳主馬よ佳主馬」
拳法をしているせいかそこにいるだけで凛とした空気を放つ、年下の友人を思い浮かべた。OZでよく話すとはいえ、リアルに見えるわけではないので会ったのは久しぶりで、健二が覚えていたよりも随分と成長していた。まだ身長は佳主馬のほうが低いがそれもじきに越されるのだろうなと成長期が過ぎ去った健二は思う。そういえば、昨日の夜の彼はどこかおかしかった。罰ゲーム。今時の中学生はあんな罰ゲームをするのだろうか。
「佳主馬くん、ですか? 行きましたよみんなと一緒に。理香さんも見送ってませんでしたっけ」
「あれ? そうだった?」
理香が思い出すようにして頭に手をやる。
「…あ、美佳をだっこしてたわ思い出した。いや、あんたたち良く一緒に居るからさ。つい」
「そうですかね」
「居るわよ、わかってないの? 佳主馬が健二くんと居ないとか雨でもふりそうね」
大げさに手をかざして庭を向いた理香に健二も笑って空を見て指差す。
「青空が気持ちいい快晴ですよ、外」
「だ、か、ら。暑くてあんたが倒れたんじゃないのよ」
きっぱりといわれ、吹き出した。そこに繋がるのか。
「それにさ、てっきり佳主馬が健二くん診てるもんだとばかり思い込んでて」
「あ、佳主馬くんもそう言ってくれたんですよ。けど、せっかく川に行くのに悪いじゃないですか。それに美佳ちゃんがお兄ちゃんと一緒に行くーって」
「あー…、想像できたわ」
「花火一緒に出来なかったの、悔しかったみたいで」
「恭平と一緒にあとで出たのに?」
「そのときには佳主馬くん納戸へ行っちゃってたんですよ。それで」
「まだやってるのよね、あれ。OZとかテレビでもさ、カズマを見るけどあんまり実感わかないのよね」
理香が首を振りウサギの耳の真似をした。
マーシャルアーツは数あるゲームのなかでも比べようがないくらい知名度は高く、またオンラインとオフラインが密接に繋がっているこの社会ではキングカズマを模したグッズは幅広く展開されており、更にはキングカズマをモデルとしてマーケティングしているゲーム企業もあるのだから見ないでいようとするほうが難しいくらいだ。
「相変わらずすごい、です。いまだに夢じゃないかと思う時もあるし、ぼくなんかが」
仲良くしてもらえて、と続けようとしたが途切れた。彼女が居たから得ることのできた三年だ。あの夏がなければ見ることすら叶わなかっただろう美しい夢だと思ったからだ。そう、夢だ。夢のような時間だった。
「なに?」
「こうやって今も呼んでもらえたりとか、佳主馬くんと友達になれたこととか、ほんとならぼくなんかが来るべきじゃないって解っているんですけど」
考えていたことを出さず、出来るだけさらりと健二なりの筋を、ともすれば重たくなりがちなそれをそうならないように気をつけて言った。
そうすると理香が怪訝そうに眉根を寄せた。
「なんで?」
「え? なんですか?」
似たようなやり取りを佳主馬ともしたなと思い出す。
そのときはインターネットを利用した音声チャットで、もし顔が見えていたならまさに理香が浮かべている表情を彼も浮かべていたのだろうか。
何か言いたげに何度か口を動かし、理香がため息とともに声を出した。
「いや…健二くんが遠いわ」
理香の呟きに何か変なことを言っただろうかと首をかしげた。
「あんたみたいな子みたことないわ。なんでそんな」
首を何度か横に振り、声を落として理香が言う。健二は話の流れが掴めない。
(遠いのはぼくが違うからで)
蝉に混ざって数羽さえずる音がした。
健二も理香も口を開かず、それだけの音がした。鳥が飛び去っていったのを契機に理香が空気を変えるかのように沈黙を破った。
「そういえばあんたお昼食べた?」
「…何時ですか、いま」
「二時過ぎくらいだと思うけど…お腹へってないの?」
「減ってないです」
「いいわそれでも。ごはん、食べなさい」
理香が座ったままの健二に手を差し伸べる。少しだけ躊躇して手を伸ばした。引き上げてもらう。
一匹だけ鳴いていた蝉がゆっくりと音量を下げていったが、それに被さるようにして違う蝉が鳴き出したため徐々に蝉同士、その鳴き声で追いかけっこをしているようだ。音が廻る。
「うるさいわね、今年も」
理香が言った。去年も変わらず鳴いていたことを健二は覚えている。忘れていない。
健二の目の前には、温かな湯気をたてて人参やじゃがいもタマネギがごろごろ入ったみそ汁や煎った胡麻をすり潰し振りかけた白いご飯、野菜と鶏肉の煮物、茄子の煮浸、細かく刻まれた青菜に鰹節をふりかけ醤油をたらしたお漬け物といったものが並んでいる。
空腹を覚えていなかった健二ではあるが、台所に連れて行かれ食事を準備してもらっていると胃が主張するかのように鳴いた。炊事場からお茶を運んで来ていた万里子があらあらと笑う。
「酢の物もなかったっけ、母さん」
「冷蔵庫の右側のほう、見た?」
「おばさん、さっき湯がいてたとうもろこしは?」
「それも冷蔵庫。でも先に揚げ物を温め直して健二さんに出してあげて。健二さん若いんだからお肉も食べないと」
「はぁい」
理香と直美が連れ立って行った。万里子は健二へお茶が入った冷たいグラスを渡して、その前の席へ座る。
「あ、僕はスイカが食べたい」
「それ俺も」
太助が台所にいる二人に聞こえるように言いながら藤の椅子へ腰掛け、その後ろを歩いてきた理一はソファに座った。侘助は黙って健二の隣の席へ行く。
「健二くん、もう大丈夫かい」
万作は健二にそう言って万里子の隣側へと歩いた。
「あ、はい。ありがとうございます」
炊事場から戻って来た理香が小皿に取り分けられた胡瓜の酢物と大きめの皿にいれられた揚げ物を健二の前へ差し出す。
テーブルをいろどった食材に満足げに頷き、万里子が言った。
「健二さん、どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
健二は言われて箸をとり、具沢山のみそ汁を一口飲む。温かくて美味しい。じんわりと染み渡り、どうしようもなくなって健二は手を止めた。うつむいて、ぎゅっと肩に力をいれる。
「健二くん?」
万作が問いかける。気持ちが溢れて、動けない。
「はい、スイカ。って、あれ、どうしたの?」
直美が大きな盆にスイカを並べて持ってきたが、台所の普段と違う様子に首をひねった。
「健二くんがとまっちゃって。…それ、そこらに置いたら?」
理香が答えて机の上を指差した。かたんっと置かれるが、誰も手を伸ばさなかった。
「………みなさん、は」
声が震えて、情けなくなる。どんな形になるとしても、ここでもう決着をつけなくては。
いつまでも引き延ばせるものでもないし、自然消滅のようにここでの縁が切れるのはいやだった。栄の声がこだまする。
「みなさんは、どうして……」
「どうしたの健二さん」
万里子が柔らかい声で健二に聞く。包み込むようなその声に尚更前を向けず、顔は下を向いたままだ。その頭を侘助が力づけるように一度、ぽんっと撫でた。
「……ぼくなんかを、受け入れて」
「へっ?」
直美がすっとんきょうな声をだした。もう一度きちんと言い直し、今度は言いたいことが途切れずに早口となった。
「ぼくをこうやって受け入れてくれるんですか。ぼくは皆さんとは親戚とも言えなくて、血のつながりもないし。関係なんて一昨年の夏を一緒に過ごしただけで…、本当に、夏希センパイとも付き合っていないのに、どうして…」
「健二くんはみずくさいねぇ」
万作が健二にいれられたお茶を啜りながら言った。理香がそれをみて炊事場へ行く。戻って来たときに持っていたものはコップとボトルに入ったお茶だ。それを新たに健二の前に置き、注ぎ入れる。
「よくそんなめんどくさいことを考えるわ」
直美がしみじみというふうに言い、腰に手を当てた。
「まぁ、あたしもあんた関係ないじゃないとか一昨年に言っちゃってるけど。気ィ立ってたのよね、あのとき。ごめんね」
謝られた為に、訂正しようと直美のほうを勢い良く見た。
「いえ! …事実、ですから」
ただ直美の自嘲するかのような笑みを浮かべた顔に、語尾が弱くなった。
「でもまぁ、そのめんどくさいことは健二くんにとっちゃ大事なことなのよね?」
理香に確認するように言われ、その声が想像以上に真剣なものだったため戸惑いながらも頷く。
「…前から思ってたんだけど、健二くんと侘助は似ているよ」
理一が息を吐くようにゆっくりと言った。
「ああ、うん。似ているよなぁ、やっぱり。健二くんと俺は」
侘助がどこか含みを持たせた笑いを滲ませ健二の頭を持ち、揺らす。突然の動きに驚いて、侘助が離してから両手を頭にやった。
「そうよね、無駄に頭いいとことかさ」
「人の気持ちが分からないとこもね」
にやりと理香が笑い、直美が侘助をつついた。
「うるせぇ」
いやそうにその手を避けるが、席は立たない。
「柄じゃねぇって最初に言っとくけどな、ここんちでそういう血縁関係やらなんやら言うだけ無駄なんだよ。俺なんて妾の子だもん。血の繋がりで言えば半分でババァの血は一滴も入ってない」
「そうそう。…三年前のあれはさばあちゃんに認めてもらいたかったんだろうけどね、それ以上に家族として相応しくあるにはなんてバカみたいなこと考えた末なんだよ。そんなの一緒にいるだけでいいのに、余計なこと考えてさ。誰に何を言われたのか知らないけど…バカだよ賢いくせに」
理一が万里子の前にあったスイカを二切れ取りながら言い、また戻る。そのうちの一つを太助は礼を言いながら受け取った。
「あたしたち侘助のそんなんに気づかなくって。出ていったときは裏切られたと思ったのよね。権利書まで持ってくし」
「ばぁちゃんもも何も言ってくれなかったんだけどねぇ。今思えば、本当に侘助が黙ってやったんならあんな穏やかに笑うわけなかったわ…あのばあちゃんがおとなしくさぁ」
「ほんとうに。侘助をバカなんて言えないんですよ。わたしたち、みんなバカだったんです」
万里子が深くため息をついて万感の思いを込めるように言った。
「…誰に何を言われて?」
健二が理一の言葉で引っかかったところを繰り返し、素知らぬ顔でスイカをしゃくりとかじる侘助を見る。
あぁ、と太助が言った。
「長く続く家だからしがらみとかもね。くちがさなく言うようなのも居てるし。僕らは影でそんなこそこそ言うような人たちなんて流していたんだけど、侘助は気にしてたみたいでね。それで今の侘助が出来上がるってわけだよ。なんだっけほら旧家出身で…」
「…東大出で、」
「留学経験ありってやつ」
太助が太助を求めるように直美を見たため、直美がその後をさらい、理香が続けた。
(それ、は)
聞いて思ったことが思わずぽつりと口から出る。
「侘助さん独り相撲みたいですね……」
「うるっせぇよ」
ふてくされたように侘助がそっぽを向いたが、気にした様子もなく太助は言葉を続ける。
「それで、健二くん。僕らはそのこじれた関係の修復にバカみたいな時間をかけたんだよ」
理香が指を立て数え、両手を開きその手を健二にずいっと近づけた。わずかに引く。
「10年。10年だわ」
「ほんっとうに長い。結果出すなら出すで最短で出してこいっていうのよ、そうしたら10年なんていらなかったのに。あ、でもそしたら健二くんと知り合えないのか。それも駄目だわ」
「なぁ、俺がいたたまれない。やり玉にあげられてねぇか俺」
「仕方ないと思いなよ侘助。健二くんも、なんていうか。むずかしいね」
「どうでもいいような人を呼んだりはしませんよ、わたしたちも。みんなと会えるのをみーんな、楽しみにしているんです。…ほら、健二さん冷めるから食べて」
「でも、…ぼくは部外者です。夏希先輩とは付き合っていないですし」
「それは健二さんと夏希の問題です」
万里子が言い切り、健二は言葉に詰まる。確かにそれはそのとおりだ。
「今は陣内一族と健二さんの関係でしょう、言いたいことは」
「だから、ぼくはそこで切れてしまうものだと」
「どうしてそこで途切れるの。いったい何をそんなに不安に思っているのかしらね。そりゃあ確かにね、あなたと夏希が結婚でもして夫婦になれば胸をはって親戚だっていえるでしょうけど、そんな縁を結ばなくたって家族だといえることもありますよ」
「…………」
「だからね、健二さん。わたしたちはそう思っているのだけど、それは健二さんにとって迷惑なことかしら」
「違います、ぼくだってそうだったらいいなって!」
「ならそれでいいじゃありませんか」
困ったような穏やかな言い方で万里子が閉めた。何かを言おうとして口を開くが言いたいことが上手くまとまらなくて閉じる。
「健二くん。なかったことにするにはもう遅いって話でねぇ」
少しだけ戯けたような口調であたたかな眼差しをした万作が言う。
「…みなさんがそんなふうに優しいから、ぼくはそこへつけ込んでいるような気がして。…よくわかんなくて」
「健二くんがそうやって言っててもさ、夏希や佳主馬は納得しないとおもうなぁ。僕らもしないけどさ。こっちからばっかり連絡とるのってズルくないかい健二くん」
「むしろこの場合、そうしろって言ってない?」
「あ、そうだ。あんたあたしと結婚する?」
「はいっ?」
突然言われた内容に面食らい、がたっと腰が浮く。
「理香?」
「ちょっと。姉ちゃん、落ち着いて考えてよ。いくつ違うと」
「いや、それは健二くんが可哀想じゃねぇ?」
「うるっさい、年は言うな、可哀想ってどういうことか言ってごらん侘助」
「そうなると本家の婿殿か」
力が抜け、すとんっと椅子へ落ちるように座り直した。
わいわいと言い合う姿を呆然と見ていると、万里子が様々なことを乗り越えて来た大人の顔で健二に微笑んだ。優しさが溢れている。
健二も笑おうとしたが視界がじわりとにじみ、ぽたりと腕が涙で濡れた。
「あ、れ?」
目を何度かしばたたかせるが、すればするほど涙が落ちる。
泣いたことに自分で驚いた。
滲んだ向こう側で万里子が目を大きく見開くのが見える。でも、拭うことも止めることも出来なかった。ただ流れ落ちる。
もう、ずっとずっと、泣きたかった。泣きそうだ、じゃなくて、泣いてしまいたかった。
諦めたくないと思っていたのに、諦めなくてはならないと思っていた。
だから栄の声はずっと健二の中で木霊した。どうにもできなくて、ひっそりと一人で消極的に関係を閉ざそうと決めて、それはそういうものだと決めて、決めつけた。
「俺と似てるけどな、違うんだよなぁ」
侘助が健二の頭をぐしゃりと乱暴に撫でる。頷いて腕で拭った。
どきどきとする。