シャープペンシルがころりと机の上を転がった。それを目で追いかけ、広げていた算数の教科書を閉じた。
卓袱台を子ども達と一緒に囲み、そして健二の動作を固唾を飲んで見守っている視線を感じながらことさらゆっくりと言う。
「おつかれさまでした」
「ぃよっし、終わった!」
「ありがとう健二にぃ!」
「がんばったね」
夏はあつい。
朝の涼しい時間は貴重で、だからその時間帯は子ども達の勉強にあてられている。
そこまではいつものこと。普段ならばそのあと、子ども達は対戦ゲームに興じたり、畑へ行って実った野菜を収穫したり、網を持って裏山へ出かけたりして過ごす。
子ども達がいない静かな午前中に、健二は佳主馬に受験対策ということで持参してきた問題集を解いてもらっている。5教科分あるそれは、佳主馬の実力が解らなかったため難易度に幅はあるものの、健二の予想以上に彼は出来た。
とはいえ間違えたり解らないところも多くはないがあるため、そういったところを重点的に修正して伝えるようにしている。
佳主馬の進学希望がどういったランクのところか解らないが、不安なところは見受けられない。
あとは内申書にもよるだろうが、そういったところでミスをするようには見えないし、だから最初に構えていたよりも健二はいくぶん落ち着いた。
真吾と祐平、真緒の年長組は健二の終了の合図を聞いて、元気よく庭へ駆け出す。
三人、背を向けて走り去ろうとしたが真緒がくるりと向き直って大きな声で言った。
「水やり、するよ! いいよね!」
「怪我すんじゃないわよー」
「したら診るからいくらでも転んでこい」
「そんなことしないよ!」
答えて、ホースを持った祐平と蛇口を勢いよくひねった真吾のもとへと走る。水が光を反射してきらめいた。奇麗だ。
「あ、あたしもする!」
ぽかんと見送っていた加奈が叫び後へ続けと庭へ飛び出したが、二、三歩たたらを踏んで振り返る。
見られた恭平と美佳は同じように縁側から外へ行こうとしたが、靴がないために縁でおろおろとした。
「玄関から取ってきなよ」
佳主馬が代わりになるものがないかと視線を彷徨わせている二人へ助け舟を出すと、仲良く揃って振り返り大きな目で佳主馬を見る。健二が口を出した。
「それでそこから出ていけば早いよきっと」
言い終わるやいなや弾かれたように靴のもとへ走り、だっだっただと慌ただしく戻ってくる。
「早く!」
加奈が二人へ向けて言葉を投げた。
恭平が投げるように靴を置いてひっかけ、佳美はしゃがんでもどかしげに履き、それぞれが飛びつくように加奈の手を掴んだ。陽のなかへ走り出す。
健二はその光景を卓袱台から佳主馬と見送っていた。
暑さをしのぐように水を掛け合い甲高い子ども特有の声を発し楽しそうに遊んでいる。涼しそうだし、暑そうだった。びしょぬれで、風が気持ち良さそうだった。
ふと佳主馬を見ると問題を解く手を止め、頬杖をつき優しい笑みで庭先を見ていて、健二に見られていることに気づいた彼は仕方ないよねというふうに笑った。
「夏だー」
「夏だからね」
健二が言い、佳主馬が答えた。
「しかし、あれはどうみても遊んでんなぁ」
侘助が特有の笑いを見せながら、じゃれて飛び跳ねているハヤテと水を頭から祐平にかけられている恭平と美佳を指で指す。笑い声が響く。
ホースは庭木へ水をやるというよりはへ水をかける遊び道具になっている。流れ出る水は確実に指向性を持っていて、声のにぎわいも増した。
「子どもは遊ぶもんだから」
太助が新聞を見ながら言うと、直美が頭のサングラスの位置が気になるのか触りながら続ける。
「元気なもんよね。いっそ川行きゃいいのに」
「あたしたちも子供の頃はよく行ったわよねぇ」
「姉ちゃんが侘助を大岩から突き落としてたの、俺まだ覚えてるよ」
侘助が理一の台詞にししし、と笑い理香がバツの悪そうな顔をした。
「川か、そりゃいい」
「師匠?」
万助が立ち上がり、縁側へ寄り柱に手をかけ、息を吸い込んで大きな声で言う。
「おぉい行くか、川に!」
遊んでいた子ども達へもそれは届いたようで、走り回っていたのを止め万助を見た。ホースからはだくだくと勢いなく水が流れ出てそれはそのままいつのまにか祐平よりホースを奪っていた真吾の手を伝い大きな水たまりを作る。そのまわりをハヤテがうろうろと廻った。
「川?」
「行く! で、バーベキューとか!」
「ウィンナーも! おにぎりもってみんなで!」
「あとスイカ割りもしたい!」
同じように大きな声で返事がいくつも戻ってきて、気の早い真吾がホースを加奈へ押しつけ、一目散に縁側まで戻ってきた。
「ばっか、ちゃんと片付けてからだろ」
佳主馬が言い、真吾の後ろからは真緒がずるいと叫ぶ。
「ま、行かないわけがないわよねぇ」
直美が言う。健二も同意見だった。太助が新聞をがさりと畳む。座っていた大人は立ち上がり思い思いの表情を浮かべ、けれど同時に楽しそうに準備をはじめた。川遊びが決まった。
万作はごそごそと納屋から小さく畳み込まれたゴム製の浮き輪をひっぱりだして、庭へ置いた。
克彦はその横にコンロが入った紙箱と網をたてかけ、頼彦は炭箱を3箱ばかりかつぎ、邦彦はアウトドア用の椅子をそれぞれ準備した。万助はどこからか軽トラックを調達し、荷物をぶつぶつと文句を言う翔太と積み込む。
万里子は苦笑を浮かべながらも懇意にしている精肉屋に電話をかけたし、奈々や典子、由美は米を炊いておにぎりをむすび、ラップに包んでいった。
夏希は子どもたちを着替えさせ、水着を準備し、タオルの用意をした。
何を言うまでもなくそれらは整っていき、まさに息のあった家族の姿だ。
その手際に健二は目を見張る。
「なんかぼく、やることあるかな?」
健二と同じように座ったまま我関せずに問題を解いていた佳主馬に聞いた。手伝おうと思うものの、何をやればいいかわからない。何が足りていないのかもよくわからない。
「…スイカでもとりにいく?」
ノートから顔を上げ、考え込むように佳主馬が答えた。
「スイカ?」
「そう、祐平がスイカ割りって言ってたでしょ。川で冷やせばいいし」
「へぇ。川で? 流れないの?」
「石で適当に囲い作ってやれば平気だよ。どうする?」
「行く!」
答えれば佳主馬は頷いて、手元のノートと開いていた問題集もぱたんと閉じ重ねて持ち、鞄へしまう。健二は散らばったままだった子ども達のノートをまとめる。
「今日もありがとう、教えてくれて」
「ううん、また続きしようね」
佳主馬が嬉しそうに、口元をゆるめる。健二も微笑む。役立つと思えるのは、嬉しい。
土の上、青々とした大きな葉がスイカを隠すようにしていて、その中から良さそうな大きさのスイカを二つ選ぶ。汗が流れた。
「あつーい」
土の匂いが近い。草の匂いもしたし、水やりのあとのせいかむんっと大地から水蒸気が立ち上っているような錯覚を覚えた。東京に比べると清涼感があるとはいえ、大きな太陽が燦々と輝くなか動けばさすがに汗が流れ出る。借りて首に巻いていたタオルで拭った。
「それ持てる?」
佳主馬に聞かれて、足下のスイカを見る。スーパーで良くみるスイカは丸く形が奇麗なものが多いが、これは少しだけいびつな形でざらりと土もついている。けれど、こちらのほうが美味しそうだ。
「大丈夫、持てるよ」
「お兄さんって、力はあるよね」
「あはは、ぼくも男だしねぇ」
「………しってる」
「佳主馬くん?」
「なんでもない」
黙り込んでしまった佳主馬に首を傾げながらも、持ってきた大きめのナイロン袋にスイカを入れる。片手に一つずつ持ち、よし、と呟いた。
「スイカだけでいいかな?」
「んー、ついでだし適当に持ってく」
言葉通り、バーベキュー用に紫の色した丸い茄子をもいで、食べ頃に赤く熟れていたトマトと、少しばかり大きくなりすぎた胡瓜も畑から収穫した。来た道を戻る。
空は真っ青で、遠くに見える山からはもくもくとした真っ白の雲が見えた。
まだ午前だというのに太陽は容赦なかった。
じりじりと脳天が焼け付いて、歩みは遅くなり息が荒れる。整えようと足を止めて大きく息を吸うと、自然のなかにいるのだと実感が湧いて気持ちがよくなった。暑いだけではなく涼やかさを伴う空気が体内へ入る。
「お兄さん、大丈夫?」
「うん、でも喉渇いたね、戻ったら冷えたお茶飲みたいなぁ」
「言えてる、一つ持つ?」
「もう持てないでしょ、それだと」
佳主馬の両手にも袋がぶら下げられていて、さきほど収穫したものが無造作に入っている。
「だからこれとそれを交換すれば」
「まぁでももうちょっとだしね、いけるとおもうよ。ありがと」
あとすこしだ、裏口は見えている。うん、と一つ自身へ気合いを入れようと頷く。佳主馬が歩き出し、後に続いた。もうすこし。
手ぶらだった行きに比べ、帰りは荷物も増えたし炎天下のもとでいたことも祟った。
正直、直射日光の威力を甘く見ていた。
屋敷へ戻り涼しい室内に入った途端に健二は目が回り、持っていたスイカを出来るだけ静かにぶつけないよう床に置いた後、ふらついた。体内で熱がぐるりとまわる。
「お兄さん?」
佳主馬がいぶかしげに呼ぶ。返事のつもりで手を挙げたが、立っていられずそのままその手をおろし、ついて座り込んだ。
健二には体力がない。スイカをふたつくらいならば抱えてみせるけれど、スタミナがないから体が休憩を要求する。
つまり、健二は熱に当てられて、簡単に言うと倒れた。
佳主馬は平気そうなのにそれに比べて自分は、と情けなくなる。でもとりあえず、しばらくは動きたくない。目が回っている。そう思って邪魔にならぬよう出来るだけすみのほうへいこうとした健二を、青ざめ、何か耐えるように口を結んだ佳主馬が一番風が通り涼しい居間へ引きずられるようにして連れて行く。
わかりにくいが、その動揺した様子に悪いのは僕なのにと思った。
居間に着くやいなや、座布団を枕代わりに健二は寝かせられた。
万作が医師らしく指示をするまでもなく、ぐったりとした健二を見た面々はその対処を慣れたように素早く行う。
タオルで包んだ氷枕を頭のしたへ聖美が差し込み、間近に扇風機を佳主馬が置いた。理一が冷たい水が入ったコップをそばの卓袱台に置いたので、体を起こして一気に飲む。わずかに塩の味がした。
「まだいるかな?」
「はい、欲しいです」
健二が答えたため、理香が台所からスポーツドリンクのラベルが貼っているペットボトルを持って来て理一へ渡した。蓋を外し、コップへなみなみと注ぐ。ボトルが机に置かれるのを待って、また飲み干す。
渇きが収まらない。健二が満足するまでそれが繰り返されて、体内の水分が補充されたと再度寝転んだときにはあまり残っていなかった。
「気持ち悪くない?」
「ないです、すいません」
「いや、いいんだけどね。よくもまぁその体にこれだけの量がはいるもんだ」
言いながら空に近いそれの残りを理一は飲んで立ち上がる。入れ替わり、その位置へ佳主馬が座り冷たいタオルを額へ置いて気遣わしげに覗き込まれた。まっすぐな黒い目を見返し、奇麗な顔立ちをしているなぁと見当違いのことを思い、届きそうだったから頭を撫でた。さわり心地の良い髪だ。何か別の表情が浮かびけれどそれがなにか、健二には解らない。
「しんどいならしんどいって言ってよ」
「ご、めんね?」
「…いいけど」
佳主馬の背には妹の美佳が張り付いて、心配したと泣きそうな顔で健二を佳主馬の肩から覗いている。
並んだ顔を寝転びながら見上げ、年は離れているが浮かべている表情がそっくりで、健二は穏やかに微笑んだ。家族だ。
「美佳ちゃんもごめんね」
「ううん、ねぇ、けんにぃは川にいかないの? だめ? しんどい?」
「治ってから行くよ。だいじょうぶ。だから川、楽しんできて」
佳主馬が前に乗り出してきた美佳を膝の上へ移し、言う。
「お兄さん心配だし僕も残ろうかな」
「えぇぇぇ、にぃちゃはみかといくのー!」
「お兄さん寝ているんだから大きな声は出さない。川はあとでね」
「あとじゃないの。はなびもしてくんなかった!」
半分泣きながら訴える美佳に、健二は腕を伸ばし、佳主馬のそれに良く似た髪を撫でてやると強く抱きつかれた。耳元で、だって、とぐずる声。子どもの高い体温がじわりとうつるが不快ではない。
「お兄ちゃんは行くよ、だから泣かないで。ね、佳主馬くんぼくなら平気だから行ってきて」
「…………」
「ほら、美佳ちゃん泣いちゃうよ」
「…無理、はしないで」
「しないしない」
笑って答える健二に佳主馬が手を伸ばそうとして、握りしめた。何かを我慢するようなその様子に違和感を感じ、目の前で倒れてしまったことを詫びる気持ちを込めて健二は手を伸ばし軽く触れて、離す。
「佳主馬くん?」
「具合よくなって、暇ならパソコン使っててもいいし。……ほんと、無理してあと追いかけてこなくていいからね」
「うん、これ以上迷惑かけるのもあれだしね」
「ちが、迷惑とかじゃなくて! お兄さんが体調崩すの、…い、嫌なだけで」
言葉を探すように紡ぐ佳主馬に、心苦しくて落ち着かない。気のきいたことも言えず、再度、心から謝る。
「ごめんね」
「元気になって」
「うん」
「それだけでいいから、もう」
「げんきになってー」
美佳が佳主馬の言葉を真似、小さな手で健二の顔を触った。
準備をしたものすべてが軽トラックに積み込まれて、縁側の先の庭で排気音を立てる。
万助が運転席へ座り、その横には翔太がふてくされたような顔で居る。
佳主馬や夏希、子どもたちは荷台に乗った。その親やハヤテは徒歩だ。歩いていける距離らしい。
屋敷には健二だけでなく、万里子や理香、侘助や理一、直美、やほか数人も残った。
縁側の影となったところに座り、見送る。佳主馬と目があったような気がしたから、いってらっしゃいと手を振ると、大きく振り返して来たのは夏希だった。彼女の明るさに自然と笑みがこぼれた。ハヤテがわんっと鳴く。
車が見えなくなり、そのあとをゆっくりと歩いていく人たちの後姿を見ながら目を閉じた。横の柱にもたれかかる。さきほどまでの騒がしさが嘘のように静かなものだ。
まぶたを差す光、血液が流れる音、心臓の音。
きらきらして、さらさらとながれ、どきどきとする。