縁側の向こうに見える空は紺色。太陽の名残を西の空に残して、星と月が同じ空に浮かぶ。
襖を取り払って作られた居間は外と違い明るく、食卓を親族全員で囲み皆それぞれ話し、笑い、飲み、食べる。
一族が集まると恒例のその様子に、お兄さんが混じるようになったのは3年前からだ。
夏希の隣に座り太助からグラスに赤ワインを注がれて舐めるように口をつけて顔をしかめた。好みの味ではなかったらしい。
(おもしろくない)
紛らわせるように目の前にあった麦茶を飲むと、氷が揺れた。水滴が腕に滴り落ちる。
今日は子ども達がさきに固まって座ったせいで大人と子どもが別れている。にぎやかしいのはどちらの席も同じだ。
恋愛は二つの文字で成り立つ。恋ではなく、そんな愛でもなかった。そうではなかった。そうだった、だからそれゆえに、きっと二人は別れた。
関係が変わったことで佳主馬とお兄さんの関係も変わると示唆され、急に不安に思った。何故変わるのか聞いてもよくは解らず納得はできなかった。
そんなことで変わってしまうものだったのだろうか。お兄さんにとってそれは、佳主馬と違って。
佳主馬に好きという気持ちや、愛と恋の違いもよくはわからない。
だけど。
あの二人を包む空気は前も今も変わらず同じで、それは師匠と母が醸し出すものと似通っている。
(わっかんない)
だから。
そんなものは恋ではない、だろう。それがそうだとしたら、佳主馬は恋などしたくない。
佳主馬は二人が持つ穏やかで温かなお互いを思いやるだけの空気を望んだりしない。
変わらない二人に安堵を覚える。
夕食が進むに連れて、掴みきれない気持ちのために佳主馬はざらざらとしたものに圧迫されはじめた。苦しい。
賑やかで楽しそうだ。佳主馬以外は。
お兄さんは顔の色がわずかばかり赤くなっていて普段よりもにこにこと笑っていた。佳主馬の初めて見る顔。ざらざらがささくれ立つ。佳主馬の知らない顔をしてグラスをあけるその姿にどうしようもないくらいの距離を感じ、何故か考えると思い当たった。当たり前のことだ、遠いのだから。
夏希がお兄さんに麦茶らしきものを渡した。前にも似たようなことをしていた二人の姿にわずかに安らぎ和む。
食べる気がおきなくてグラスをまた口に運ぶ。ガラスのふちに歯をたてる。かちかち。少しだけ、含む。
佳主馬の隣で騒いで食べていた真吾が取り皿に唐揚げをとろうとして瓶を倒した。机に広がる濃い色は醤油かソースで、すぐさま真緒が瓶を戻し、慌てる声にそこへ布巾を投げると祐平が拭っていく。
汚れたところを吸い取り見る間に白かった台拭きは染まっていった。じわりじわり。
誰も汚れていないのを見てから軽く真吾の頭を小突く。
「落ち着きな」
「だって」
「悪いことをしたらなんていうんだっけ?」
「…ごめんなさい」
真吾が素直に言い、佳主馬は今度は宥めるようにぽんぽんと頭をなでてやる。
「ねー、佳主馬にい?」
加奈が佳主馬の後ろへ座り込んでいた。振り返り見れば膝へのぼろうと寄ってきたから収まりやすいように場所をあけ受け入れる。座り、照れたように嬉しそうに笑って佳主馬を見上げた。
「どした?」
「あのねぇ、おかあさんが、夏希ちゃんと健二くんはオニアイねー、って。オニアイってどういう意味ー?」
言われた言葉が脳に到達するまでに数秒かかった。理解へ及ぶにはまだ足りない。
「オニアイ?」
加奈が言ったようにカタコトで問い返す。ぽんっと真吾が右手を左手に打ち付ける姿が不思議と遠くに見えた。
「それってあれじゃね?」
信吾が得意そうに言うのが耳に入る。
不意に、思ってもいなかったことがのそりと頭をもたげた。
(あの人に似合うのならなんだっていいから僕が、そうなりたい、な)
「え、結婚とかそういう?」
祐平が変わった様子もなく言った。
もたげた頭はゆっくりと大きく、おさまらない。
(それは僕以外の誰かと並び立ち僕以外の誰かを、それこそ恋をお兄さんがしていて。僕じゃなくて、当たり前で)
「けっこんー?」
加奈が真似をして言う。
さらに頭はもたげ続け、育った。
(でも、もし。ならばそれならばいっそお兄さんが、例えば僕のことを好きだと告白してくる女子のように、なら、たぶん、自分は。女性だったとしたら、女の人ならば)
「でもまだ大学生だよ、健二にぃは」
真緒が言った。名前が出たことで一気に現実感を得る。遠くに見えるものなどなにもない。
(……ならば?)
「結婚はないよ、あの二人」
理由も言わずに強く口にした。別れたことを知っているからだが、そういう理由ではなく、言いようのない気持ちが飛び出たように。
子ども達が顔を見合わせて、本人の方を見た。佳主馬も見る。大皿に盛られていた煮物を取ろうとしていたらしいが、まとまった視線に気づいて驚いたように目を見張った。
伸ばしていた箸を戻し、子ども達へ手を振って佳主馬を見、なにか言いたげに微笑まれる。それを直視することが出来なくて、逸らした。
(あれ?)
誤摩化そうとして、グラスをつかんだ。氷はもうない。そして飲んだはいいが、水で腹が膨れていて気持ちが悪い。
真緒がまっすぐに佳主馬を見て、年に似合わない笑みを浮かべ立ち上がる。お兄さんの背後へ走って行きその背中に張り付いた。
「健二にぃ、食べたー?」
飛びつかれた衝撃に軽く揺れ受け止め、お兄さんが撫でる。
「真緒ちゃんは? おなかいっぱい?」
柔らかい声が聞こえ、真緒が何を言うつもりかと見た。
「食べた!」
「そうなんだ、美味しかった?」
「うん。あのね、花火持ってきたから健二にぃもしよう!」
「あんたたちさきにはじめといたら? 健二くんまだ食べてるじゃない」
夏希が口を挟み、真緒が伺うよう見る。
「そうだね、あとでぼくも混ぜてくれたら嬉しいな」
その視線を受け、お兄さんはためらいがちに答えた。
佳主馬は食べることを放棄して箸を置いた。
広間から漏れる光で明るくも夜の暗さの間際、夜空に浮かぶ星と月がその存在感を発揮し、ざわ、と風に庭木が揺れハヤテが嬉しそうに佳主馬の足へまとわりついた。
「佳主馬にぃ、火消しってこれでいいかな」
「あとこれゴミ入れるバケツ! 万助じいちゃんが持ってけって」
祐平と真緒がそれぞれ聞いた。
佳主馬は祐平の足下に置かれていたバケツの水量を確かめ、加奈が持っていたバケツを受け取りその横へ置く。
「いいんじゃない?」
しゃがんで蝋燭を固定し、ライターで火をつけた。立ち上がり真緒へ手を伸ばして握る。危ないからだ。
「あと、言っとくけど花火は人に向けるもんじゃないからな。特に真吾」
「なんで俺に…!」
「やりそうだからだろ」
「ねー」
祐平がからかうように言うと、佳主馬に手を引かれていた加奈が語尾を伸ばし佳主馬を見上げる。その様子が可愛くて笑いを誘われた。
真緒が早速、袋を破って一つ選んで手に取り蝋燭へ近づける。火薬の匂い。弾ける音と夜を彩る明るい光。
加奈に引っ張られ、佳主馬も真緒が持ってきていた花火のそばへ寄る。キャラクターのイラストが描かれた花火を取ると、加奈は佳主馬へ渡す。それに蝋燭の火を移して、握らせた。ほどかれる手、嬉しそうに小さく跳ねて、火花が散り熱を持った光の花が咲いて、小さく歓声があがる。
真吾と祐平が火のついた花火を持って走る。煙が線を引く。ハヤテも一声鳴いて走り回る。
佳主馬は引いてその姿を後ろから見守りながら、真緒が持ってきていた袋のなかにあった小さな打ち上げ花火を適当に並べて着火線へ火をつけた。
(全部消え去れって、さぁ。そうそう思うようなことじゃあないよね)
だいたい3メートルほど距離を取り、吹き出るのを待つ。打ち上げ花火に気づいた子ども達が走り寄ってきて、加奈が手を伸ばしてきたから繋いだ。遠巻きに伏せて尻尾を振り、ハヤテはおとなしくなる。
最初は小さく、じょじょに大きく、赤に緑、白や黄色と色とりどりの光が弾け出る。時間差を考え着火したために、次々と順序よくあがる。濃い煙と焦げたような匂い。夏の夜。
「パラシュート落ちてくるのないの?」
「あるよ、持ってきたもん」
「つぎ、つぎこれ! 佳主馬にぃこれ!」
「最初にやってたのやつ、もっかい! しゅわーってなってたの」
「真吾わかんないそれ」
口々に言う子どもたちを黙って見ていると土を踏む音と気配が近づいてきていることに気づく。そちらを見ると、二人が歩いてくるところだった。
「夏希ねぇ!」
真緒が飛び跳ね近寄った。
抱き止めて、夏希が笑う。真緒がその手をひっぱった。加奈が佳主馬の手を離して足下の花火を数本拾い、夏希へ差し出した。
打ち上げ花火をあれがいいこれがいいと選んでいた真吾と祐平はそれを置いて、両手に数本まとめて火をつけ、くるくるとまわして遊び出す。光の軌跡が出来た。
お兄さんは笑ってそばに来る。
「楽しそうだね、花火まだある?」
「あるよ」
頷いて手持ち花火のそばに座り込み、指差してみせる。
佳主馬は最年長の夏希へ引率を任せることにした。打ち上げ花火よりも手持ち花火のほうを楽しんでいるようなので、手元にある打ち上げ花火をビニールの袋の中へ戻す。残るようなら明日でもいいし、夏はまだ続く。
「ほんとだ、いっぱいあるね」
遊び終わったあとの花火を避け、お兄さんも座った。近い。
「あ、線香花火だ。佐久間と良くやったんだよ。知ってる? 静かにじっとしてればいつまでも楽しめてさ、玉を落とさずにいたほうが勝ちってやつ。なーんでかぼくのほうが落としちゃうんだけど、火の玉」
「…なんで落とすの?」
「うかつだから。動かなきゃいいのに動いちゃうんだよね。だからいつも負ける」
ははは、と眉を下げ笑みを浮かべる。
その表情はよく知っているもので、ホッと息を吐いた。
これまでどおりにはいかないと言われてから、ちらりと時折垣間見せる佳主馬の知らないお兄さんの面影は、佳主馬のことを知らないと言いそうで伝えられたことは本当なのだと突きつけられているようで、それは酷く怖く得体の知れないものに見せていた。
けれど話せばやっぱり変わりはなくて、それからどう思えばいいのかわからず、やはり掴み切れない。そのうえ、さきほど浮かんだことが離れない。
(女性だったらよかったんだ、って)
「それじゃ僕ともやってみる?」
「うん、やる、やりたい、です。佳主馬くんに勝てたら佐久間にも勝てる気がする!」
言い切るお兄さんの姿に口元をほころばせる。
「ただやるだけじゃつまんないし。うん、僕が負けたら一つだけ、聞ける範囲ならなんでもやるよ」
「いいけど、佳主馬くんに出来ないことってなさそう…」
「そんなことないよ。苦手なこともあるし、かなわないことだってさ。お兄さんが負けたらどうする?」
「え、一緒。佳主馬くんと同じで。出来ることはきみより遥かに少ないと思うから、お手柔らかにぜひ」
相好を崩すお兄さんから今度は視線を離せず声も出せず、だから頷くことで了承の意を伝えた。
(だけど、どう見たって違う。ひっくり返せない差だ)
お兄さんの手元にあった線香花火の束から二本抜き取り、一本を渡した。
背丈がはじめに比べ短くなった蝋燭へ近づけた。じじじと先端に火が移り、丸まって玉が出来る。小さく火花が散り、じわりと火の赤さが火薬の腹の部分にまで浸食していき大きくぱちぱちと爆ぜる。
見ながら、その玉を揺らさぬように気をつけて静かに問うた。
「ねぇ、お兄さんっていくつだっけ」
「きみと4つ違いだから19だよ」
佳主馬と似た姿勢で固まったまま、空気を震わせる音で玉が落ちるとでもいうようにおそるおそる答えた様子に、音もなく笑う。
「未成年じゃん、飲んでいいの? ってか、おいしい?」
「新歓で飲まされて潰れて以来、多少は飲めたほうがいいかなっていう打算的なところがなきにしもあらず、です。ほんとは良くないからアレだし、だから家でしか飲まないんだけど」
「今日のは? 太助おじさんから赤ワインもらってたじゃない」
「押し負けました。良く見ていたねぇ」
笑いを含み、他意なく言っただろう言葉に肩が揺れる。わずかでも動いたことで丸く赤い玉が落ちてしまうと思い、慌てた。
「でもさ、って、おちたぁぁああ………」
相手の花火をみれば黒く、地面の上で花のような火がか細く散っていた。
「なんでお兄さんのが落ちてるの?」
「佳主馬くんのほうに向き直ろうと動いたから、かな…。気をつけていたんだけどなぁ。あーもう、向いてないのかなぁ」
「動くからじゃ…」
「だって話しにくかったんだよ、残念」
残念、と歯切れよく言われてゲームを思い出す。一緒に遊びたかっただけだから特に何も考えていなかった。
願い事をひとつだけ。さて、なににしよう。
それにしても、とお兄さんが続けた。
「佳主馬くんのは長いねぇ」
自分の花火を見ると火薬が詰まった腹の部分は既に終わり火花は小さい。火の玉が落ちそうにゆらりと揺れる、重たそうにたゆんと垂れる、弾ける。落ちない。
花火を見ているお兄さんを気づかれないようにこっそりと伺う。
空は青いのだと当たり前のことに気づくような気持ちで自覚をした。
そうだそうだ、そうだった。好きなんだ。
だけどけれど、そうだった。諦めるんだ。
そう決めるのもまた、強さだろう。
当たり前のことに気づいて、諦めたほうがいいのだろう、この気持ちは。
そうできるのもまた、強さなんだろう。勝敗なので表すことの出来るものでもなく。
じ、じ、じとゆっくり音を立て、火が消えた。
赤かった玉が黒く変わっていく。
「よし、僕の勝ち」
「はい。何したらいいかな」
背をただして、改めて聞かれる。負けることは考えていなかったが、勝って願うこともまた同じ。
何を言われてもいいようにといったお兄さんから視線を外して、離れたところで花火で戯れている子ども達を見て、なんとなく袋を見やって、打ち上げ花火のことを思い出す。
立ち上がり、一つだけ手に取って蝋燭のそばに置いていたライターで着火線へ火をつけた。それを危なげなく離れたところへ投げ離し、元居た場所へ戻る。
「佳主馬くん?」
「ね、目とじて」
「目?」
「そう」
「それだけでいいの?」
「うん、はやく」
座ったまま、言われたように訝しがることもなくお兄さんは目を閉じた。
土の上で花火が火を吹き出す。線香花火よりも派手な音と一気に立ちこめる火薬の匂い。夏希たちはいきなり地面を走り回るそれを凝視して、真吾と真緒がそれを追いかけようと走り出す。伏せていたハヤテが、耳をピンっと立てて立ち上がる。
気にせずに、佳主馬は立ったままお兄さんへかがむ。
唇に柔らかな感触がして、切ない気分になる。心臓が早鐘のように動いている。これが最後。もう、きっとない。すぐに一歩離れる、そこでパチっと目が開いた。
「…目、目が! え、なんで、えええ?」
慌てるお兄さんの姿に目を細めて見る。
眩しいもの。愛しいもの。気づいていけないもの。忘れるもの。
「落ち着きなよ」
「君が言うの?!」
瞼へキスをした。
忘れたくないもの。けれど、だけど、でも。
これは恋ではなく憧憬だ。憧れてやまない。
「だって罰ゲームだよ。びっくりした?」
だから、忘れられると信じた。
(どんな顔をしているんだ、僕は)
どきどきする。