じめじめと蒸し暑い梅雨がやっと終わった。
今年の梅雨は例年より長かったと今朝のテレビが言っていたが、しとしととと降る雨に辟易していたから梅雨明け宣言は喜ばしかった。ただ、これからはただひたすら暑い夏がくるなと部屋の冷房をオンにする。
エアコンが音を立てながら開いていき、それを見てからパソコンの前に座った。部屋が冷えていくのを待ち、電源を入れる。
一学期の期末試験はもう目の前で、それが終われば試験休みがあり、そして夏休みとなる。高校受験を控えた夏休み、いわゆる受験生といわれるものに佳主馬はなった。
どこへ進学をするか、ということをまだ決めかねているが情報技術分野の専門的なことを学びたいとは考えている。ただし、それでいいのかと思っているのも事実で進路希望書にはとりあえず学力に見合った高校名を記入して提出した。
進路、未来。
自分がこうなりたいと思う大人。
なりたい大人像はあるのに、そうなる為に何を学ぶのかが効果的であるのか、そういったことを考えては打ち消し思考まとまらずもどかしい。
(足りないんだいろいろ)
金曜日の夜の定例のようになっていたお兄さんとのチャットは随分とご無沙汰だ。カレンダーを見て今日の曜日を再度確認しついでに時計を見た。22時18分。つまらない。
佳主馬は変わりなくOZへとログインしているので、繋いでいないのはお兄さんだ。
今年から大学生になったお兄さんは、4月の中頃のWebカメラを併用したチャットでへろりと疲れた顔をして「これからしばらく接続できないかもー…」と言ったまま本当に時々しかOZで見かけないしその時間も短い。
今はもう夏休み前で佳主馬の意識は進路の判断材料ともいえる期末試験のことよりも、長野で過ごす夏に向かっていて、
そんな時期なのにほとんどお兄さんと話すことが出来ずになんとも言えないもやもやとしたものが胸にたまる。
もや、という言葉で誤摩化してはいるが、正しくは不安だ。
(なんか、したっけ?)
こんなにも長い間、連絡すらない。
お兄さんと知り合ってそれは初めてのことで最初は大学生活が忙しくまた人付き合いが不慣れそうなあのお兄さんなら馴染むのにも時間がかかるのだろうとは思ってはいたが、避けられているのではないかと一度考え始めたらそれが深みにはまった。カズマにも小さなカズマにもメールがくることも減ったから、なおさら違うことを考えることが出来ない。
(なんかしたっけなぁ)
パソコンの画面を見て考える。カーソルを動かしOZへのログインをいつものように済ませた。とたんに広がる見慣れた電子の世界。二匹のクジラが空を泳ぎ、無数のアバターは浮かび、本棚は整然と並ぶ。
モニターの中央には長い耳、赤いベスト、腰にはベルトのアバター。OZのなかでの佳主馬だ。
左上の隅に、友人リストが広げたままでそこにはお兄さんや佐久間、それから親戚の名が連なっている。文字の色とアバターの表示で、一目で登録しているアバターのログイン状態がわかり便利だ。
ログインしていれば名前の色は黒でその前に小さくアバターが表示され、繋いでいなければアバターは表示されずに文字が灰色。お兄さんの名前は灰色でアバターも居ない。だからそれはOZにはいないということ。
それを見て今日もまたいないのだとため息をつく。
(話したい)
避けられているとしても思い当たる原因なかった。その頃にはチャットにも慣れて気軽に話せていたと思うから。
それともその気軽さがいけなかったのだろうか。もしくはなにか不味いことでも言ったか。
二ヶ月は軽くまともに話していない。携帯からメールを送ることも考えたが、忙しいのだろうと思えば躊躇われたしOZからのメッセージも同じ理由で送ることなんて出来なかった。
でも、と思う。今日は金曜日だ。しかも、もうすぐ夏休みで、上田にはいつ来るのかと聞くのは自然なことではないだろうか。多少不自然だろうがなんだろうが、もういい。子どもの言うことだから、でまだ大丈夫なはずだ。出会った頃よりも大人に近づいているが、まだ、大丈夫。
善は急げとばかりに佳主馬は灰色のケンジをダブルクリックするとメッセージの記入欄が浮かんだ。
そこへ文字を叩き込む勢いで入力し、送信をクリック。
送信しますか? と吹き出しが浮かぶ。
もちろんだとばかりにエンターを叩けば、画面に所在無さげにたたずんでいたウサギの耳がピコンっと動き、飛び跳ねて遠くへ向かい小さくなっていった。
固唾をのんでウサギを見送り、完全に見えなくなってからいつのまにか入っていた肩の力を抜く。
(なんっか、考えてばっかりだ…)
落ち着こうと大きく息を吸い込めば、冷えた空気が体内に入り少しすっきりとした。
パソコンが放出する熱を冷やすため設定温度は低い。
気持ちがわずかに切り替わったのを皮切りにデスクトップにあるメーラーを立ち上げる。
昼間は学校のため、佳主馬は夜にメールのチェックをする。相手も佳主馬が学生であることを知っているので緊急を要するようなことは直接携帯へくるがそれは最後の手段だ。
受信のゲージが伸びて新規のメールを取り込む。一目みて解る出会い系やセールスの迷惑メールをゴミ箱へ移動させ、スポンサーからのメールを順次開いていく。
じょじょに研ぎすまされていく感覚により集中をしようと首にかけていたヘッドフォンを耳にあてた。別の部屋に居る家族が見ているテレビの音が遮断されぎしりと椅子へ座り直す。音量をさらにあげる。耳に響く大きな音は脳を突き破りそうだ。
自身がやれることには真剣に取り組む。それが佳主馬の姿勢だ。
佳主馬のパソコンは起動と同時にスカイプも立ち上がるように設定をしている。常に最小化されていて着信があったときに知らせるもので、それが反応していることに最後の返信メールを書いているときに気づいた。
思考を文章化させているときに違うことを考えたくなくてメールを優先、送信。ダブルクリックでスカイプを表示、誰からの着信なのかに気づいてヘッドフォンを乱暴にとり、わきにどけていたイヤホンとマイクを繋げる。カメラは起動していないから音声のみだ。
「っお兄さん!」
待ち構えていたような声が飛び出た。気にもせず、待たせていただろう相手の返事をじりじりと待つ。長いような短いような、時間。
「…佳主馬くん?」
ぽつりと問い返されて、幾分か落ち着く。イヤホンのせいか声が近い。
「そうだよ」
(お兄さんの声、だ)
「はは、久しぶりだねぇ」
「うん、元気だった?」
「あっれ佳主馬くん声低くなった?」
くすぐったいような笑いを含み、不思議そうな声が耳を打つ。言っているであろう本人はきっと柔らかい表情を浮かべているんだろう。
「ああ、こないだ声変わりした」
「どんどん大人になるね。そうすると身長も抜かされているかもしれないのか」
並んで立てるならそれもいいが、声が変わることで身長も伸びれば世話がないなと思う。佳主馬の背はクラスで並べば高いほうにはなるが、それでも多分、まだ届かない。佳主馬の声はいつから変わっていっただろうか。
「それで、大学はどうなの?」
「大学…は、年上のおねーさんたち、はんぱなく怖かった」
「は?」
「あとなんか警戒心なさすぎて、起きたときに女の人の顔があって普通にびびった。なにあれお酒怖い。ぼくだって頼りないかもしれないけど男なのにねぇ」
苦笑した気配が伝わってきて、けれど佳主馬はそんなことよりも気にかかることがあった。なにをしているんだこの人。
「…お兄さんって夏希ねぇのことが好きだったんじゃなかったっけ?」
思っていたよりも平坦な声が出たことにどこか冷静なところで驚いた。変だ。
「うん、好きだよ。きれいでかわいいひとだよね、夏希先輩は」
いつもなら口にしないようなことを嬉しげに、そして誇らしそうに言うのでなぜかどんどんと自身の顔が強ばる。だって。だって?
気を紛らわせようと画面から目を離しなんとなく時計をみる。23時過ぎ。で、明日は土曜日だったなと考えて、思い浮かんだことが一つ。聞いた。
「……もしかしてお酒飲んでる?」
「お、あったりー。すぐ潰れちゃうんだけど家だからいいかなって」
「今も飲んでるの?」
「シャンディガフ。知ってる? ビールをジンジャーエールで割っているやつなんだけど。ビール苦いからさ」
「未成年だよ僕、お兄さん」
「あ、そっか、そうだよねぇ。こうやって話してたらつい佳主馬くんの年とか忘れちゃうなぁ。しっかりしているから」
「お兄さんはもっと落ち着いたら?」
皮肉なことを言って、だけど強ばりは解けた。認められたい人に認められると嬉しい。
「ははは、がんばります」
「そうだ聞きたかったんだけど、今年はいつくらいから上田にくるの?」
「あ、それなんだけどねぇ、今年は行かないでおこうかなって」
「は? なんでこないの?」
再度声が固くなって、今日は驚くことが多い。また避けられているのでは、という思いが頭をもたげる。
お兄さんの態度はいつもと同じだけれど、人は繕える。顔がみたい。
「ええとねぇ…言わないとだめかな」
「聞いていいことなら知りたいけど、いやならべつに」
うそだ、聞き出したいにきまっている。しっかりした、と言われたし格好悪いところも見せたくないから大人びたように相手を思いやっているように言うけれど、会える日を楽しみにしていたのだ。聞きたくないわけがない。
「嫌っていうか、恥ずかしいっていうか。こんな言い方されたら気になるよねぇ。あのね」
「なに?」
「ぼく、夏希先輩と付き合ってないんだよ。だから」
「だから?」
「え、だから、だよ。ぼくなんかが行っちゃおかしいでしょう」
「………なんで?」
夏希と付き合っていないということと来ないということが繋がらないが、ただ声の様子からすでに決めたということだけは伺えて、焦燥感に繋がった。ほかになにか違う理由を言われたほうがまだ納得ができた。身内なのに来ないだなんて。
「ん?」
「…え?」
「え? なに、」
「……それでこない、の?」
「うん。…あれ、ヘン? 去年はまだそういうこと考えなかったんだけど、今年は考えたんだ。夏希センパイもアメリカ行ったし。いつまでも優しさに甘えてちゃいけないんじゃないかって」
(優しさって、なんだそれ)
佳主馬は身内だと思っているし、そのほかの親族もみんな同じことを思っている。でなければ佳主馬にお兄さんがいつ来るのかだなんて聞いてこない。みんな、忙しいと言ったお兄さんを慮って佳主馬に聞いてきた。お兄さんのことは佳主馬に聞けばいいと思われている節はどこか嬉しかったが佳主馬だとて同じ理由で聞けていない。
夏希と付き合っていないことがなんだというのだ。その付き合いがなければ、行ける場所ではないというのか。今更、自分は無関係だとでも言うつもりなのか。
(そんなの、は)
「……理由でもあったらくるの?」
「あ、まぁ、そうだねぇ。行きたいんだけど、そういうわけにもいかないしね」
残念だよ、と言う声に後押しをされるように言葉が出た。
「じゃあさ! 僕に数学教えてよ。僕は今年も上田に行くから、お兄さんも一緒に行こう」
「えええぇえ? そんなこと言っていいの? そもそも、教えてあげられるようなことあるのぼくに」
「だって僕、今年は受験だから。塾に行くくらいなら兄さんに教えてもらいたい」
「ぼく自信あるの数学だけなんだけど。受験って英語とか、色々あるよね」
「大学生が中学生の家庭教師をやるっておかしくないよ。バイト代も出すから」
「……あのね、佳主馬くん。ぼくが人に教えられるようなことが出来るとおもう?」
「むしろなんで出来ないと思うの?」
教えるということは人の立場に立ち、何が分からないかと想像して伝えることだ。言いたいことをいうのではなく、相手に伝わっているかどうか。上手いか下手かはともかく、お兄さんならば伝えきろうとしてくるだろう。それで理解出来ないのなら自分に努力が足りない。
「…世の中には出来ないひともいるんだよ、わかってる?」
「いろんな人がいるってちゃんと知ってるけど、お兄さんは出来るでしょ。それにお兄さんに教えてもらえるなら嬉しい」
「きみは…ほんとに……出来ないって言えないよねぇ、それ」
苦笑しているような、なんともいえない思いを滲ませて、お兄さんが言う。
「だって断らせるつもりなんてないよ、おにーさん」
「えぇ?」
「なんだったらお願いしますっていおうか?」
「い、いらな…、っていうかなんでそこまで」
「お兄さんがいきなりわけのわかんないこと言うから」
「ぼくのせいなの?!」
「うん。夏休み、上田で一緒にいようよ。東京よりも涼しいから過ごしやすいし。僕の家庭教師で」
いろいろと言葉を尽くして言うのもいいのだが、お兄さんにはこういう素直な言葉が好まれるとこの数年で学んだ。
「いいのかなぁ。聖美さんにもちゃんと聞いたほうが」
「今日はもう遅いから明日聞く、それでメールする。メールして大丈夫なんだよね? もう邪魔にならない?」
「ちょっとまだ遅くなるかもだけど大丈夫。って、ああああ、ぼく言葉足りてなかったよね、こないだ忙しくなるとか言ったから控えててくれてた?!」
落ち着きなど欠片も見えない言葉であわあわと言われて佳主馬は笑う。お兄さんらしいからだ。抱えていた不安は消えたわけではないけれど、小さいものになった。
みんな心配していたんだよ、とは言わない。ひとりじめだ。
キリのいいところで話し終えて、マイクとイヤホンをはずしたら耳が涼しくて、あっというまに終わったように思えたのに長い時間つけていたのだと感じる。
何を話したかと思い返して落ち着かなくなって、それでも平静を装いヘッドフォンを耳に装着したら、爆音と言っていいくらいの音で曲が流れ出て心臓どころか体ごと飛び跳ねた。
どきどきする。