ぼくは ずっと まっている。
机に広げた教科書に陽が差し込む。カーテンで遮られて尚、光の粒子が鮮やかな夏を感じさせていた。
学期末テスト対策プリントが光を弱く跳ね返しながらも熱を移し、触れれば温かい。太陽は日に日に夏へ近づいていく。開けている窓から滑り込むように聞こえるのは、遠慮がちに鳴いている気の早い蝉。早すぎる夏を謳歌している。もしくは一人を嘆いているのかもしれない。早く目を覚ませと声の限り歌うのか。
学生の多くが夏休みを心待ちにするように、佳主馬とて例外ではない。
生徒の自主性を尊重すると掲げているからと選んだ高校は学区内でも一二を争う進学校としても有名で、だから気は抜けなかった。点数如何によっては補習もある。
担任教師から配布された用紙が持つ力を引き出すことが今の佳主馬に課された使命だ。実力テスト以外の試験ではこのプリント、侮れない。
緑のマーカーで本文を塗り、それを隠すように使う赤い下敷きは学生の必需品。使い込んで細かな傷がたくさんついていた。瑣末なことがキッカケのそれで埋め尽くされ、傷ついていないところを探すほうが難しい。
折れない程度にぺこんと曲げる。集中力は長く持たない。
どこかで犬が鳴く声もする。人の足音、車の音。騒々しい音に溢れているが不快でもなかった。
散漫した意識をかき集めて再びまとめるのは少しばかり難しい。特にテストに向けてのものならばなおさらである。同じ集中を要するマーシャルアーツとは雲泥の差だった。好きか嫌いで大きく変わる。
佳主馬の部屋には背の高い棚を二つ置いていて、そこにはプログラム言語の専門書や教科書、ゲーム機などが無造作に仕舞いこまれていた。
ベッドに制服を投げ置いているからあとで片付ける。その脇に静かにあるのは閉じたノートパソコンとヘッドフォンだ。オズにはしばらく繋げていない。
世界への扉は機械仕掛け、耳へ流れ込む音の奔流は電子の世界へと誘いこむ。メールは携帯からでも利用できるが、佳主馬はオズが好きだった。遠くに住む祖父に少林寺の教えを請えたからだけではない。
広いようで狭く深いようで浅い情報の海をひたるには、距離も年齢も性別も国籍も分け隔てなく、意思を持つ人であるということだけが最重要。人に繋がる媒体だと刻まれている。
勝つことだけではないマーシャルアーツも楽しいと気づくのには時間がかかったが、迷った末にいる今に胸を張る。誰に強制されることなく自分で決めて得た結果だからだ。
パソコンを起動させようか迷ってやめた。
立ち上げればオズにだって接続したくなるのは見えていて、それをしたが最後、しばしの休憩になるどころか勉強が息抜きになってしまう。本末転倒もいいところだった。
赤い下敷きを額にあてるようにして窓の向こうを見る。フィルムを通して慣れ親しんだ地元の風景は赤で彩られる屋根と道路、背の高いマンション、コンクリートの人工物。向かいのマンションのベランダで干されていた洗濯物が揺れた。
陣内から見える景色とは随分違うと不意に思ったのは天気のせいだ。
下敷きをぱたんと机に落として窓から空を見上げた。太陽が雲を蒸発させたかのようにくっきりと青い。
遠くまで見渡せるような晴れた日を思い出す。
同じような空を知っていた。
雲ひとつない透き通る青、緑茂る木々、木陰は色濃く、吹いた風は太陽の熱を存分に含む、去年の夏だ。
ところどころ改築はされているものの、陣内の屋敷は夏でも涼しい。加えて長野は避暑地としても有名であるからして過ごしやすい。
佳主馬が良く居るのは予想外に快適な納戸だ。
一人分だけのスペース、適度な大きさの机、コンセントの数。さらに本家のネット環境は無線だ。
しかし納戸というだけあって普段は使わないようなものも収納されていたし、入り浸るうちに慣れたのか掃除されたのか最初は埃っぽかった。最低限、不便ではないようになっていたそこを当時は不思議に思うこともなく受け入れていたが、誰のためだったのか、今ならわかる。
物心つく前に会っていたかも定かではない一族と疎遠だった大叔父のために、曾祖母がおそらく触らず変えず整えていたのだろう。いつ戻って来てもいいように。離れてしまった家族のために。
偉そうなところが癪に障った、一族きっての天才。
太陽が目に痛い。一人ぼっちの蝉は寂しさに耐えかねたか、はたまた声が枯れたか、蝉の声が消失した。代わりにと外を通る誰かの話し声が響いた。大きな声で愚痴だ。
光が跳ね返るアスファルト、自転車を押して歩く制服を着た女の子が二人。初夏の気配をわずかに残している風がスカートを揺らした。
聞くともなしに飛び込んで来たそれを佳主馬はなんとなく口にした。
「自分ばっかに意地悪って」
愚痴のようだがよくよく考えると一方的に寄せられた恋心のはなし。
「好かれてるんじゃないの」
だって自分なら。
佳主馬の呟きはリビングに居るらしい妹と母の笑い声に消えた。幼稚園はもう早くから夏休みだ。
(すき)
ゆっくりと心中で二文字辿る。たった二つのくせして容易ならぬ並びだ。
佳主馬も言ったことがある。否、心の声が漏れてしまったというのが正しい。伝えるつもりが一片もなかったのだから。
納戸に収納されていた本を健二は読んでいた。
佳主馬は興味もないから何があるのか知らないが、雑然と並んでいる中に好奇心を刺激されるものがあったらしい。
夏の盛りのまっただ中、炎天下に比べると納戸は涼しいがそれでも暑かった。床の冷たさが心地よいと素足をぺたりと伸ばす。
(なんだかなぁ)
思うようにならない。
健二が来るまで佳主馬はスポンサーへのメールを書いていた。が、それも今は中断だ。メールを書くには文章を考えなくてはならず、そのためには思考を働かさなくてはならない。考えなくてはならない。
しかし、手につかない。
カチカチとマウスを操ってあてもなく画面をカーソルがさまよい、フォルダをまとめて選択して解除。選んで選び直す。何かをしなくては、と焦りを見せた矢印はモニターで迷子のように右往左往。終いには何か書けとばかりにテキストエディタを呼び出した。佳主馬はそれに「なんなの」と残したが、当然、答えはない。
陣内に集まる人数は多く子どもも大人も入り交じって、屋敷は人で溢れそうになったところで勢ぞろい、各地より集まった親族は宴会を開いて宴もたけなわ、来年を楽しみに解散となる。数日はかかる話だが、恒例だ。
五年前、健二はそれに驚き、部外者がどうのと妙な遠慮を見せて、最後は流された。
知らない人が多いから帰ります、とも言えないだろう。
しかし多人数に慣れない健二が納戸へ訪れる回数が増えたのは予期せぬ変化だったが頼られているようで嬉しかった。
健二が納戸へ来ただけで特別のような気がしたのだ。
まるで知らない夏のような。
(なんだか、なぁ)
先ほどと含む意味が少し変わった。どうしようかな、と思って目を瞑る。
いつか言われたことがぐるぐると廻っていた。これ以上ないというくらい練りこまれ、分離は難しい。佳主馬を直美が「ひよこ」だと称したのはいつのことだったかはもう覚えていないのにその言葉が思考の渦への入り口だ。落ちるのが恋なら渦巻くのはなんだというのだろう。
考える間もなくあっというまに夏が来てしまった。
一日二十四時間一年三百六十五日、まるで足りない。解決するには時間だけでは不十分だということか。
子が親を捜すのは本能だ。いつだって目で追う、どこにいるのかを知りたい。無条件に守ってくれるのが親だからだが、健二にそんなものは求めていないし、四つの差しかないのに親呼ばわりはいくらなんでも非常識だろう。
健二が納戸へ訪れることを喜ぶのはなぜか。親のように慕い、兄のように懐いているのなら家族だからと説明がつくのにそうはいかない。
魔法かなにかのように、最後のカードを切って守ってみせた奇跡。失われかけたものを結びなおした健二に揺ぎ無い信頼を寄せている。健二が判断したことならば、なんだって疑いもなく信じられる。懐くだなんて甘い。これではむしろ傾倒だ。
子が親に寄せる信頼と同じ。おなじ?
何かが変だ。
何かがずれている。
健二がもし、いなければ?
きっと、頼るものをなくした子どもがするように佳主馬も探す。
けれどこれは少しおかしい。
悲しいのに笑えるし、笑っているから楽しいわけでもなくて、だけど人は嬉しくて笑うし、悲しいから涙をこぼす。
いろいろと混ざって形成されて一つの形に留まらず、だからこそ掴みきれない気持ちに名前をつけるとするならばなんとする。
何もかもを知りたいと、佳主馬は今まで誰に対しても思ったことがない。
閉じていた瞳を開けると自身が残したメッセージが迎えた。なんなの。
冷却が間に合っていないのか、キーボードがパソコンの熱を伝えてきた。一度再起動をしたほうがいいのかもしれない。
「健二さん」
「んー?」
答えのない問いかけを消す。
聞いているのか聞こえているのか判らない生返事に指が動いて空白が新たに埋まる。「あああああああああ」見直して脱力し、黙って消去。立ち上がっていたプログラムを閉じて行き、残ったのは鍵穴だ。中央に浮かび上がるゲート。扉は鍵で守られている。パスワードがキー。
「健二さん」
鍵、施錠、閉じる。
「どうしたの? メール終った?」
「ううん。飽きた」
パスワードの入力を静かに待つ鍵は、強固なシステムの入り口だ。入力を三度間違えるとロックされる。
鍵をかけるのは開けてはいけないからだ。
そのなかに守るべきものが人目に触れぬよう、大切に隠されている。
見せてはいけないから封じ込めなくては。
隠し事。秘密。なぜ隠さなくてはいけないのか。
そう思ったらどうしようもなくなった。
鍵はまだかけていない。施錠はなされていない。
「飽きたって……。休憩?」
「うん。涼しくなってからやる。暑いし」
笑っていた健二は納戸から外を見た。光のせいで白さを増している庭。ざわっと木々が動く。
締め切っていない納戸は誰でも出入り自由で開け放たれている。もともと日本家屋は襖などで区切るだけで扉らしい扉はなく鍵もない。
「……好きって」
うまく声が出せなくてかすれた佳主馬に健二が振り向く。
「好きって言ったらどうする?」
耳に入ったそれは別人のようだ。遠い。
「すき?」
「そう。どうする?」
初めて音にした。そうしたらすとんと鍵穴にすっぽりとはまり落ちて納まった。
まるで雲に隠されていた月が凛として在るように、それは静かに音を立てて動き出す。意識が塗り変わって一瞬で風景すら変わった。納戸の狭さに息苦しさを覚えたのも初めてで、知らない場所だった。
「と、言われても……ん?」
飛び出した言葉は復旧のできないデータのようだ。取り返しがつかない。
「……うん? ぼくも君たちのことはすごく好きだけど……あらためて言うようなこと?」
柔らかな声の健二は不思議そうだが嬉しさがにじみ出ている。
「うん」
佳主馬は目を離せない。
「そっか。そっかぁ」
どうすると投げたが本当のところ、返事は必要としていない。
言いたいことを告げただけ。言いたかっただけ。佳主馬が健二を好きだということを知ってほしかっただけ。
「好きだよ、健二さん」
瞬きもせずに見つめたまま、言葉を飾ることすら出来ない。もう少しなにか言いようがあるだろうに、それだけを繰り返した。
好きになってもらいたいとも思わなかった。
だって嫌われていないし、どちらかといえば好かれている。弟として、あるいは友人として。それで佳主馬は十分だった。ひっそりと胸の奥に扉を閉める。鍵は手に入れた。
そんな佳主馬に健二は近づいて来た。後じさって机にあたる。抱きしめられた。時間がとまる。
どれだけそうしていたか、次に気づいたときに健二はすでに立っていて「先に向こうへ行ってるね」と言って納戸から出て行った。
佳主馬は見送り、しばらく何も考えられないまま座り込んでいた。
追って広間へ行けば普段と変わらない健二が居て佳主馬を笑って迎えた。
以来、届けるつもりも届く予定もない恋心を大事に育てている。
それが遠くまで見渡せるような晴れた日のことだ。
一年前のこと。そして佳主馬は健二と会えなくなった。
ずっと、待っている。
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