呼声エンドレス

 

 

■■■■■ 七月の下旬、朝のこと。


「ね、健二さん」
 低すぎない声が耳を打つ。条件反射のように目を閉じてしまって、慌てて見開いた。
 いつのまに。
 それが健二の偽らない気持ちだった。
 納戸の床に倒れ込み、頭は真っ白で、どうでもいいようなことが流れている。
 たとえば、古いものの匂いがする、とか。
 大広間の声、やっぱり聞こえないなぁ、とか。
 伸びた髪はやっぱり邪魔だなぁ、とか。
「なにかんがえてるの」
 健二に問うて、圧し掛かろうとしているのは佳主馬だ。
「なにって」
 いつのまに。
 それしか浮かばなくて現状に有効であろう動きも言葉も浮かんでいない。
 ひどく近い体温に狼狽えていたのは、半年前だ。その後、何度となく繰り返されてすっかりと落ち着きに塗り直された。
 覚えのある蜜な気配を発している。
 爽やかな朝の訪れを彩る鳥の囀りが嫌に時間を意識させる。蝉はまだ鳴いていない。
 さきほど朝食を済ませたところの、陣内家だ。広間じゃ子どもたち主催の夏休みの計画がたてられて、大変賑やかだった。本家の知り合いから立派な竹を数本譲り受けていたはずだ。健二はそれを微笑ましいなぁと思って、だけど、佳主馬が早々に席を立ったからついあとについて出てしまった。
「あの、佳主馬くん」
 自分の表情が佳主馬の瞳に映っている。
 焦っているような意識をそらせたいような顔だ。
 そして鏡みたいに見えているってことは佳主馬にも同じものがうつっているはず。
 時の流れは健二の手のひらからこぼれて、図れない。
 納戸に来てどれほどたったか、あるいは、数分の出来事なのか。
 止まりかけている思考とは裏腹に、佳主馬の手は元気に動く。本日の着衣はジーンズのショートパンツと白くてだけど色とりどりの糸で刺繍を施されているカッターシャツ。シャツの裾は当然仕舞い込んでいたけども、それを引っ張り出される。
「いや、ちょっと、佳主馬くんってば」
 いつのまに、じゃない。
 いつのまにか、で、さらに言えば、硬直している時間がもったいなかった。
 いつでも最善の効率を出すことを心がけているキング相手に、何を悠長なことをしていたのかと思うと焦りが生じる。
 そこへ、だだだだと板間を板間を賑やかに踏みつけてくる音がちかづいてきて、すぱんっと扉が開いた。
 途端に遮られていた空気と音が飛び込んでくる。
 さきほど囀っていた鳥たちの音は聞こえない。
「なんでいっつもこっち……ッ」
 飛び込んでこようとしたらしい真悟が目を見開いて足を踏ん張り、扉で急停止し、後ろを続こうとしていた誰かがいたのか身体が揺れた。
「うわっもう急にとまんなよぶつかったじゃん」
 声から判断して、祐平だ。想像通りの行動だったが、この場合それがなにかの役に立つことはない。
 祐平も固まっている真悟をよこにずらして部屋の様子を見て、同じように固まった。
 え、ちょっと、なんで?
 健二も仰向けになったまま、子ども二人を下から見上げる。二人ともそっくりな表情だ。大きな目で健二と佳主馬を交互に見ている。
 あれ、ぼくいまどういう体勢って、
「うわああ!」
 せっかく落ち着いてきていたのに、元に戻った。否、それ以上だ。
 上に居る佳主馬を押しのけて、腹の筋肉を使いすみやかに身体を起こす。佳主馬が流れるような動きでどいたため健二の動きは阻害されなかったが本人は気づきもしていないし、佳主馬としても当たり前の動きだった。
「わあっ」
「びっくりした!」
 びくりと肩をあげた二人に問うた。
「な、なにっ?」
 びっくりしたというならば、健二も十分驚いた。
 聞かれたことに、へ、と考え込むようにしたのは真悟だった。
「……いや、なにってか、ケンジ戻ってこねぇんだもん」
「万理子おばさんに呼んできてって言われたし」
「……なんで二人で転がってたの?」
 大変無邪気かつ悪気もなくどこか心配さをにじませて聞かれると居心地が悪いと同時に返答に困る。まさか正直に言うわけもないし、だからと言ってすぐに妙案が浮かぶわけでもない。
「ちょっと僕が立ちくらみ起こしただけ」
「タチクラミ?」
「なにそれ」
「呪文みたい」
「な!」
 二人で顔を合わせてケラケラ笑いあっている。
「なにが呪文だよ。バランス崩して倒れたってこと」
 佳主馬が少し噛み砕いて説明した。それを健二は心中で復唱。バランスを崩して倒れる。
「だれが? え、佳主馬にぃが?」
「……健二ねぇじゃなくて?」
「そう僕が。でなきゃ健二さんの上に倒れるわけないし」
 ぱたんと机のノートパソコンを閉じて、佳主馬が答えると、本当に、というふうに見られたので答える。
「うん、うん、はい。そうだよ倒れられました」
 とりあえず、疑わしさはおいておいて佳主馬の口車にのることにした。二人が抱いた疑問はそっくり健二も思った。無茶のある理由である。よりにもよって、少林寺をたしなむ佳主馬が立ち眩みなど、起こすわけがない。
 健二は佳主馬が立ち上がろうとしているのを見ながら、動揺を落ち着かせようとそわそわ動いて、部屋の端にやられていた座布団をひっぱりだして、正座した。手は膝に。人間、焦ると何をやるのかわからなくなるものである。
 佳主馬はどうにも理解しがたいのだがそのあたりは何も思っていないようだから突かれたら困るのは佳主馬よりも健二だ。
 何故か立ち上がった佳主馬を座ったまま見上げる。
「で、どしたの二人とも。万理子おばさん?」
 問いながらも、佳主馬が手を差し伸べて来たので、同じように手をだすと引っ張りあげられ楽に立ち上がれた。
「あ、そうだった。呼びに来たんだった」
「夏希ねぇから送られてきたお土産、みんなで食べようっておばさんが」
 夏希も研修中だとかで去年よりも遅れてくるらしい。一緒に東京で買い込んだ品は優秀な宅配業者に委託した。正解だと思う。
「それなら食べててくれてよかったのに」
 相変わらず察しのいい佳主馬に感心しながら、待たせてしまった後ろめたさと若干の疾しさでつい言い返すと、祐平が何を言っているのかと笑って言った。
「二人が来なきゃ食えないじゃん!」
 初めて顔を合わせてから数えて四年目だ。にかっと笑うのは少年で、だけど、随分と大人に近づいていた子どもだ。生意気なことも言うし悪戯もするが、健二からすると弟が居たらこんな感じかなとも思う。実際に居るわけではないから想像するだけだ。
「あ、はい」
 当たり前に呼ばれて、嬉しい気持ちではにかむ。
「でも、佳主馬にぃが倒れるなんて珍しくね?」
「また夜更かししたんじゃねーの」
「そうだねぇ。夜更かししてたんだろうねぇ」
 何食わぬ顔で少し責めるようにみれば、罰が悪そうに笑っていた。
「何かあってからじゃ遅いからね。しっかり言っとくけど!」
 しっかり、のあたりを強調して、隣に立つ佳主馬に向き直った。
「今度はないからね。ぼくもいつだって踏みつぶされたくない」
 婉曲に遠回りに。直接的な言葉なんて、言えるわけない。
「ええっと。まぁ」
 言いよどまれるが、健二もひけない。さっきだって、健二はそんなつもりはなかったのに、何かがスイッチになった佳主馬に倒されていた。
 この場合、いいようにやられている自分を慰めるべきか時間も場所も選ばない佳主馬をいさめるべきか。 そんなの考えるまでもない。
「返事は?」
 聞くけども、目が口ほどにものを言っている。
 視界の端で子供がふたり、にやにやと笑っている。
 見つめられていたのはわずかな時間だ。それでも、健二は佳主馬によく見られている。その時々で込められているものは違うが、最も多いもののうちの一つではないだろうか。熱のこもったそれだ。至近距離にいるのだと、健二に悟らせる目。
 それで見られているとき、大体健二はこう思っている。
 取って食われる気分ってこんなのだ。
 佳主馬がそれを自覚しているのかどうかは知らない。告げたこともないし、そうするつもりもない。
 でも、たぶん。無意識じゃないかなぁ。
 しかしその根拠は健二の願望だ。
 だってあんなの、わざとされていたとしたらなら、健二の身が持たない。
 気を抜けば何をされるかわからない。
 だけど、気を許した相手にいつまでも緊張など出来るものでもないし、見られていることは別に嫌ではない。だって見られていることに気付いてるってことは、それだけ健二も佳主馬を見ているってことだから。それだけそばにいるってことだから。だから別に嫌ではない。
 しかしまぁ、いきなり襲われたいものではない。
「はい。ごめんなさい」
 うん、と頷くも、ニヤニヤしていた真悟と祐平が一歩引いたのが見えた。なんでだろう。





























■■■■■ 七月の下旬、昼のこと。


「健二ねええええ……」
 力なく呼ばれる声に、小さく笑いをもらす。
 そこそこに暑い昼下がり。湿気が多ければ不快だが、暑いのが夏だ。そのうえ、ここは東京に比べれば断然過ごしやすい。
 蝉がじーわじーわと鳴いていて、扇風機が首を振っている。
 テレビは沈黙を守り、卓袱台を囲んでいるのは健二と真緒の二人だけ。
 だからといって、静かなのかといえばそうではない。
 軽トラックが二台、庭に停車していて、そのうち一台に青々しい竹が積まれていた。枝はすべて落とされているようで、まるでホームセンターで売られている木材のようであった。
 一族が集まったら流しそうめんをやるらしい。
 ぎゃあと歓声があがり、水浸しになった恭平と加奈に制服姿の翔太が若干うろたえながら辺りを見渡し竹が積まれていないほうの軽トラックの荷台にあったタオルで加奈を乱暴ながらも丁寧な手つきで水気を取っているが、恭平はすでに兄たちのそばに走り寄っている。
 からりと晴れた夏日だ。すぐに乾くことであろう。
 水浸しになった原因のホースは力なく地面に横たわり、乾いた大地を潤していた。
「うあー。もー、わーかーんーなーいー!」
 キッとプリントをにらみつける真緒に、健二は笑い返す。若干、庭へ向けていた意識を室内へ戻す。
「落ち着いて最初から数字追いかければ大丈夫だよ」
「その数字が逃げていくよ健二ねぇ!」
「ははは。ハイがんばって追いかけて追いかけて」
「うううう」
 真緒が陣内家に持ち込んでいた算数のプリントを教師役として一緒に解いていた。
 一日一枚解くようになっているプリントだが、二日解かなければ二枚になりそれが七日ならば七枚だ。はてさて、夏休みに突入し八月まであとわずか。溜まった枚数は言わずもがな。
 一緒に、とはいっても健二からすれば懐かしさを思い出させるアイテムでしかない。
 算数は、基礎であり基本だ。 
 小学生が学ぶ算数は数学とはまだ言えず、当然、ゼ ・