ダブルプライム

 

 

 がりがりとノートを埋めて行く音がする。夏休み前半に消化しきれなかった課題の残りだ。
 冷房を効かせた部屋は涼しいし、こういう時によく乱入してくる妹は母に連れられて市が主催する子ども劇場へ出かけた。公民館で幼児向けのアニメを上映するらしい。
 コンビニの袋をぶら下げた友人たちが来たのは、昼前だった。
一人がペットボトルにスナック菓子、サンドイッチにおにぎりを詰め込んだコンビニの袋を持ち、もう一人が綿のバックから夏休みの課題一覧プリントをにこやかに見せたのだった。
 佳主馬も残る課題と向き合っていたところだったから何の連絡もなしに訪れた友人を迎え入れたが、宿題の追い込みを同級生とというのは、ある意味正しい夏休みの消化の仕方だろう。
 楽しい時間は早くすぎるというからか、もうあと一週間程度しか休みは残っていない。短かった。
「うあ、これどゆこと?」
 コンビニの袋をさげていたのはクラスで隣の席に座る中下で、いま呻いたのが大村だ。見ると英文と辞書を見比べている。助け舟を出そうかとしたところで、科学のプリントに取り組んでいた中下が口を挟んだ。
「例題よく読んだ?」
 佳主馬の手元にはは課題図書だ。まだ半分も進んでいない。読書は不得手だった。
「それ、ひっかけだよ」
 大村が何言ってんの、という表情のまま例文と問題、辞書を見比べていき、かしげたままゆっくりとペンを走らせているがうんざりとした様子は見て取れた。
「教師ってさぁ性格悪くないとなれないわけ? もっと素直に問題くらい作ればいいのに」
 佳主馬は同じ問題を単語をばらばらにして組み立て直し、解いた。言葉は人とおなじ年代を過ごしているだろうけど、一つの単語へ複数の意味を持たせるくらい程度には不足している。
「ああ、それはさ、おまえみたいなやつから点ひかないと僕が目立たないじゃん」
 読書は嫌いではないが感想文を書かなければならないと思うと憂鬱で、だから読み進めることが窮屈だった。そのおかげで一向にはかどらない。
「ひっでぇ!」
「言うね、池沢」
 佳主馬の課題は残るところ、その読書感想文のみだ。終わったノートやプリントはテーブルで広げられている。数年の付き合いで、彼らは丸写しをしないと知っているからだし、佳主馬だって宿題を上田へ持ち込んで取り組んだから強いことはいえない。佳主馬の親族は優秀で、また面倒見も良い。どうして読書感想文が残ったかといえば、課題図書の貸出手続きが遅れたためだ。そして返却されたとオズ経由でメールで知らされたときには運悪くすでに上田に到着していたから再度手続きを変更するはめになったし、そのせいで夏休み中に借りるのはともかく感想文としてまとめるには間に合わなくなった。
 手続き自体はオズで容易に出来るが、本はデジタルではない。仕方なくショッピングエリアで購入しようとしていたところ、健二が止めた。持っているから貸すよと言って、上田から戻るなりすぐに宅配で届いた。
 基本的に、と思う。
あの人は結局、佳主馬に甘いのだ。だからそこへつけ込む。つけ込んでしまう。格闘家を自認している佳主馬からすればそれはわかりやすい隙だ。
付き合ってとねだったときだって、拒絶されればそこまでだった。その覚悟があったかどうかは置いておくが、わずかでも顔を歪めればそれで十分だった。そうなったらそうなったで自分は懸命にアプローチするだろうし、そもそも嫌がられなかったからといって、何を思ってああいう行動をとれたのかがわからない。一言で言うならば、衝動が止まらなかった。
だからか、もったいないことにあのときの唇の感触をよくは思い出せない。暑い夏だったということは、とてもとても覚えているのに。
いつだって健二の前では調子を崩す。この間だってそうだ。調子が狂う。でもそれは別に不愉快じゃない。
 ようやく半分くらい読み終わり、次の章へ進んだ。
ページをめくると鉛筆でメモがある。「ここから」矢印つきだ。しおりを挟むのではなくて、走り書き。
思わず笑いが漏れた佳主馬を二人が見る。
「なに」
 少しだけばつが悪い。これを見て面白いと思うのはたぶん、自分だけだろうし。
「変な人にジョブチェンジ?」
 気持ちを切り替えようと汗の浮いたボトルからコーラを飲んだ。ぽたぽたとそれが落ち、服にしみができるがどうせすぐに乾く。
「課題図書さ、違うのにしたんだけどそっちのがよかった?」
 吹き出した原因を本かと推測した中下に問われた。
「こんなのどれ読んだって変わんないじゃない? 面白いっていうならジャンプのが楽しいし」
 答えるも、指でなぞる。
ここから。ここまで。つぎは、ここから。始めるための合図だ。
「ああ、新連載始まってたなー。あっでも俺の大好きなあれは打ち切り間近っぽい。ページがだんだん後ろに行く」
 大村が英文を解けなかったときよりもよっぽどしょぼくれた。ジャンプは読者からの人気が全てという、なかなかわかりやすいシステムをしている。
「ワンピどうなってた?」
「あー……、海賊王に俺はなる!」
「ハイハイ」
 夏は瞬く間に終わり容赦なく距離を離す。
 次はいつ会えるのかなと思った。冷たく部屋を冷やす冷風を浴びるのは夏そのものであるが同時に上田ではありえなかった。暑くもからりとした空気が懐かしい。
 本気で嫌がられたりしたら、佳主馬にはもうどうしようもない。
だけど、そうじゃない限りは追いかける。
だから、逃げるのは逆効果だ。
逃げたから追いかける。単純明快。追いかけて捕まえる。これも分かりやすい。明瞭簡潔。
それに逃げられると追いかけたくなるのを、健二は判っていない。離れようとするのならば、逃げるのではなく正面から言えばいい。それだけで佳主馬は動けなくなるだろうから。
佳主馬のほうへ流されてくれればいいのに、健二が持つ芯の強度は高くてどうしようもない。
 ここから。では、どこまで? 文字に言葉を繋げた。
幸い、ペンは机にいくつか転がっている。健二の本だということを考慮して同じくシャーペンでだ。
 捕まえ続けるために、足りない物はなんだろう。不安に思われてしまったのは不徳である。不足を補おうとすることを努力というなら、去年より日々たゆまぬ姿勢で挑み続け、ある程度の結果は出ているがしかしまだ不十分だ。足りているもののほうが少ないとすら思う。そんなふうに考えたこともなかったのに。
「何してるのかな」
 健二の文字から視線を離さず呟いた。会いたい。佳主馬の欲求はとどまるところを知らないから、からだに熱が溜まっていっている。
「俺はやめとけって言ったからね」
 呟いた独り言に返事が返って来た。考えに没頭するあまり、なぜか騒がしい友人達を気にしていなかった。
「なにが?」
「え、俺らに言ったんじゃないの?」
「こいつが池沢の分食いきったんだけど」
「あっちょっ中下、おまっバラすなよ違うぽいのに!」
 指差された方をみると、佳主馬の好きなメーカーのスナックが平らげられていた。知らず半眼となり、ビニル袋をがさりと漁って未開封のものを背に隠す。誰のものかは言わずとも分かるだろう。
「東京と名古屋。二時間くらい。遠いと思う? 近いと思う?」
「俺のポテト……、あ、いや、なんでもないです」
「遠くはないけど近くもないんじゃない」
 答えにため息をついた。
会いたい。だけど戻ったら夏期講習だと言っていたからいきなり行って、考えなしだと思われるのも怖い。
「なにどしたの」
 それに、自分を止められるだろうか。よくわからない。欲求はとめどなく、触れるだけじゃ物足りない。
「僕って我慢強い?」
「……何を言いたいのかわかんないけど、我は強いよね」
「うん。でも主張はしねぇし、池沢って」
「そうそう。やりたくないこと黙ってやらないわけ。でもってそれあんまし悟らせないの」
「我慢強い?」
「えっ、立ち回りが上手い」
 ずるずると机に顔を伏せて聞く。本は開いたまま腹部に抱える。素直に頷くにはひっかかりを覚えるけれど、大体に覚えはある。立ち回り云々は、慣れのせいだ。佳主馬の側面には大人と渡り合うキングがいる。
 しかし主観と客観の違いは思っていたよりも大きかった。
「待てって、言われてる」
「……待ってんの?」
「誰に?」
 すっぽりと捕まえたのは、今年の夏。まさに今抱えている本みたいに。
 ひたひたと溜まる熱は全身にくまなくまわり、それは苦しいのに甘みを潜めている。依存性が高く、時に佳主馬へ害を与える。その症状を緩和するにはそばへ行くしかない。
健二がこぼす吐息すら佳主馬は飲み込みたい。流す涙は舐め取りたい。
「保健体育の勉強したいかも」
「えっ保体って宿題ないじゃん。つーか、実テでもないだろ。期末対策にゃ早すぎ」
「女の子の体べんきょーしたい」
「ちょっと池沢さん卑猥」
 呆れた口調に笑う。
佳主馬が楽しみにしていたスナックの残骸はさっさと丸められてゴミ箱へ。
少しだけ足の先が冷たいから冷房を緩めた。