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彼女は不思議な人だった。家族からはぐれて迷子になっていた自分とは対照的だと思ったのだ。失くしたとばかり思っていたものは最初から自分の手の内にあった。時間がたつにつれて、お互いにひねくれていったのだろう。あるいは朝顔の蔦のようにもつれあっていた。
メールを送ったのはただの思いつきだった。
彼女のアカウントが乗っ取られたのはプログラムの判断で自分の意図していたものではない。そもそもからして、ろくな指示を与えてはいない。あれにあったのはただ一つの欲だ。研究者ならば誰しもが抱えている渇望ともいえる。
彼は思う。
彼女はどうして乗っ取られたのか。
見せてもらった計算式は正答だった。
しかし実際には、そこから漏れていた。
そこになんらかの意志があったのか。それとも。
ただ知りたかった。
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九月のとある日のとある教室での出来事。夏休みも終わって一週間もすれば学業の毎日にすんなりと馴染めた。
午後の最初の授業時間は、彼女の机をカーテン越しにとはいえ、明るく照らす。入口から正面の窓際がその場所だ。
現在の科目は、英語だ。教科書の文章を読み上げているのは、ちょうど教室の真ん中に座っている男子生徒だった。これは当分、彼女の順番が巡ってこないことを指しているので、余裕を持ってノートの下に忍ばせているルーズリーフの位置を調整する。書き込みすぎて書く場所がなくなったからだ。紙は文字で埋まっている。
いまや誰もが利用している仮想世界オズのセキュリティは2056桁の数字を鍵にして守られている。正確には、いた。少なくとも一年前はそうであり、また現在の状況を知る立場に彼女はいない。知りたいとも思わない。興味はそこにはない。世界有数の大企業の安全性など知ったことか。
三人ほど連続して読み上げ、宿題として出されていた部分が終了した。その後、先生が黒板にカツカツと英文を書いてゆく。
母よりも少し年を重ねたその先生は柔らかい雰囲気で生徒からも人気があった。
本文のところどころに穴が開いているから、そこを埋めてゆくらしい。日本語訳は配られたプリントにある。接続助詞は言葉や文節で変える必要があり、ややこしいので苦手だった。英語が苦手だった。だがしかし、世界共通語としてみるとこれ以上優秀な言語もないだろう。解ってはいるが、彼女は日本から出るつもりがないため、新しい言語の習得に熱心ではなかった。
黒板のほとんどを占める文章は、まだ書き終わらないようだった。それを同じようなスピードでクラスメイトの多くがノートに書きとる。机に向かいペンを走らせる。彼女と同じ姿だ。
ここ一年、ずっと一つの問題に取り組んでいた。問題としてはそこそこ有名な、インターネット上に暗号として出回った不可解な2056桁の数字の羅列だ。
「あとちょっと、だ」
多くの人へメールで届いたこの問題を、数時間で解いた人たちがいる。
彼女の元へもアバターが差し出していたが、彼女はメールを開いて、それからすぐに携帯電話の電源を落とした。眠たかったのだ。夜中に送ってこられても正直なところ困る。眠りに落ちていたのだから無視したって仕方ないだろう。
きちんと見たのはオズにログイン出来なくなって困った翌日の朝だった。
小声に反応したのか、隣の席の男子が怪訝な顔でこちらを向く。
「なになに?」
「あ、ごめん。なんでもないの。あと……ちょっとで追いつくとこだったから」
慌てて黒板を指す。右端の位置に先生が居ていて、高さ的に書きにくいのか、しゃがんで上を見るようにして書いていた。
彼女の言い訳に納得したのか、頷き返され、また彼も写す作業に戻った。
彼女もルーズリーフへ視線を落とす。
ほとんど解けているのだ。おそらく授業中には終わるだろう。
鍵を紐解いてゆくと英語になった。文章としては二つで構成されている。短く解りやすい文章と、そうでないもの。
解くのにはとてもとても時間がかかった。
受験生なのに暇さえあれば数字を睨んでいたと思う。こうやって授業中ですら隠れて解いている。場所を問わずに時間を注ぎ込み、そうしてようやっと、回答に近づいた。
思考を数時間で済ませる人物がいる一方で、一年かかる彼女のような人物もいる。世界は広い。どこかでこの問題の発案者もいるのだから。
ふと今年は出られなかった大会のことを思い出した。
最後の記念にと思ってエントリーした去年の予選会場でも似たようなことを思ったのだ。
数学オリンピックは高校二年生までしか出場資格がない。
そこでは、多くの人がいた。残念なことに、最終戦まで残ることはできなかったが、そこそこの成績を残したおかげで大学への特別推薦枠を得て、周りの受験への焦りと無縁でいられる。だからこそこの問題へ没頭できた。
出場制限があるにも関わらず、興味ある国内の学生はほぼ集まっているせいで、すごく人が多かった。同年代で好きなものが同じ人たちのなかにいると思うと、それだけで心が弾んだ。同時に大人への反発もある。自分たちの世代をゆとりだと呼ぶ多くの大人は、これらの問題を解こうとすらしないだろうからだ。ゆとり呼ばわりされるのは、彼女たちのせいではない。円周率を3だとみなされるようなものではなく、小数点以下延々と続き循環もしない魅惑の数学定理だ。
だがそんなふざけたゆとり制度のおかげで試験は簡単だった。
それとこれとは別問題である。
彼女はそう思っている。
時折、顔をあげて黒板を確認する。自主的学習が活発なだけでサボっているわけではないからだ。推薦枠があるとはいえ、内申点も気になる。
何度かそれを繰り返して、にんまりと止めようのない笑みが浮かんだ。視界の隅で隣人がわずかに身を引いた。見られていたらしい。
とりあえず隣を向いてピースを送ると笑われた。
「じゃあ今度はこれを読んでもらいます。穴あきのところは埋めてね」
柔らかく先生が言った。英語のノートは真っ白のままだが慌てない。
「五分もあれば大丈夫かな。はい、はじめて」
その声と同時に板書を開始する。どうせ今日は当たらないだろうが、ここで写さなくてテスト前に青くなるのは自身だった。
手際よくノートに写し、個人学習の成果を引っ張り出す。新しいルーズリーフを出して、それに英文を清書した。計算式も入り混じっている用紙のままでは見難いからだが、この用紙は親しくしている数学科の教師に見せびらかせたいという思いもある。
2056桁の鍵を開錠すれば、そこにあったのは英文だった。
The magic words are
squeamish ossifrage
To know is to know that
you know nothing That
is the true meaning of
knowledge
「はい、時間です。ええと、さっきは小宮さんだったから、津本くんかな? 区切るまで読んでください」
「はい」
返事と共に椅子を引く音。ぎい。読み出した声と、それを聞きながら書き取る音、カッカッカと黒板をチョークが踊る。
うわの空で彼女はそれらを聞く。右から入って左へ流れる。
意識はその英文ではなく手元に釘付けだ。
隠されていたものがさらけだされた。
英語の授業だったことが幸いした。英文を訳すには辞書の力を借りなくてはならないがそれらは手元にある。翻訳サイト、と頭に浮かぶが、ここは学校で今は英語の時間だ。情報技術の授業ならば、可能だったのだろうけど。
だがしかし、時間と手間がかかるが辞書を片手に訳するのは学生としては正しい姿だ。
数列から浮かび上がった英文だとて、英語は英語である。
声のなかにチョークの音が混ざる。ちらりと前を見て、いくつかの空欄が青い色で埋められていることに気づいて、それをまたノートに写し、終わると電子辞書を起動した。
文明の利器は手間を減らすという素晴らしい効果がある。
magicは魔法、squeamishはイライラしたとか気難しい、 ossifrageはデジタル辞書ではなかったからあとで英和辞書で調べることにする。
『魔法の言葉はイライラしたossifrage』
最初の一文節はこうだった。
もしくは『気難しいossifrage』
次からの文章は手強い。単語自体は優しそうなのに、繋がっているからだ。
パン、と手を叩く音がした。先生だった。別のことをしているのがバレたのかと焦り見るがそんな様子はなかった。
「いま読んでもらったところの、この最後のand。ここは間違えやすいんだけどsoになりますよ。残り時間は、問題集をやります。57ページを開いて。出来た人は提出してください。この時間に間に合わなかった人は明日までに持ってくるように。早く終わった人は今日の宿題の分を進めてください」
ノートの上に問題集を開いて重ねる。日本語を英語に直しなさいという大問題が一つだ。提出期限は明日まで。宿題と言われているのは教科書の訳だが、こちらは誰が当たるか解っているために、当番のようになっている。
どうしようか、と考えて先生を見た。教卓にある椅子に座った。ふむ。問題集は休み時間にでもしよう。
あらためて文章を見て、自信のある単語以外をすべて調べた。知らない意味もあるのかもしれないと思うと、結局ほとんどの単語を調べることになった。
数人いたという回答者は、こうやって意味を調べたりしたのだろうか。
数列から規則性をまたたくまに読み取り定理や公式に当てはめた人たちは。
そして、愉快犯を被せられた高校生は。なんらかの選定があってあの人が選ばれた。犯人として。
選ばれなかった正答者と選ばれた回答者の違いはなんだったのだろう。犯人とされた人とそうでなかった人たちとの違いは。
当時、回答者がいたことはニュースになったが、個人の特定にまでは至らなかった。研究所のスタッフだとか大学の教授だとか、そこそこ知られた名前がひっそりと真偽不明の情報としてオズで囁かれていた。どこかで誰かが知っているという人たちは、それなりにどこかでは有名だったのだ。たとえば、名前で検索するとヒットするレベルには。つまり、無名の人間はいない。……はずだ。はずだが、これについてもう一つニュースになっている。
オズの混乱は過去例を見ない規模で、それこそ色々な情報が出ては消えた。
そんな風にあやふやにされた出来事の一つ。容疑者を特定したメディアの愉快犯特集は、一斉に別の内容に変わったのは不自然すぎて妙としか言えなかった。
それはまるでなんらかの手段が講じられたような。
考えても迷宮入りだ。どうして犯人と疑われたのかを不思議に思ったが、それ以上のことは出来なかった。
彼女が知るあの人は、問題を解いたと言われても疑えないと思ったからだ。
数学オリンピック予選会場で前の席に座っていた。こちらが四苦八苦して時間内に納めようとしているのに、十五分ほど残してペンを置いた。残りの時間は見直しにあてていた。
世界は広いなぁと思って、背中を眺めたのだ。
発想とそれからの計算が速いのだろう。まず問題に必要な公式や定理を見つけることが不得手だから羨ましかったことを覚えている。
だからあれを解いたと言われても信じられる。でもニュースで見たときは驚いた。本当にびっくりした。オズへログインで出来ないという事実よりも驚いた。制服にも覚えがあったことがそれに拍車をかけた。
そして僅かな怖れを抱いたのだ。見知らぬ誰かなら遠い世界のことだから現実味がなかった。けれどそれがほんの少しでも知っている相手だったなら?
後ろの席の誰かが教卓へ向かう。問題を解き終わったのだろう。彼女も訳文を終えた。訳文は終わった。あまり難しいものではなかったのが幸いだ。
大体のあたりをつけて、自己流に解釈をしたところで、終業を知らせるチャイムが鳴った。
日直が声をかけた。
「起立」
がたがたと不協和音を奏でて全員が立つ。
「礼」
一瞬の沈黙後、がたがたという音と会話が一気に花開き、がやがやとした。
一度座り授業に使ったものを仕舞いながら、おぼつかないながらも訳した文章を見る。
知らないことを知っていろと、オズは言っていた。
中国の思想家や古代ギリシアの哲学者が、はたまたお釈迦様が、残したとされる言葉だ。
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日曜日。多くの者が終わろうとする休日を惜しむ日。
時刻は夜、もうすぐ十一時になろうかというところだった。明日のことを考えると夜更かしは出来ない。
暦ではすでに秋ではあるが太陽の頑張りは夜遅くまでその威力を発揮している。冷房は手放せなかった。
暑すぎるのも寒すぎるのも苦手なために、部屋の温度を適温に保ち、喉を潤すため氷の入っていないコップには麦茶を入れてパソコンの横に置いてある。チャットを楽しむ姿勢としては万全のものだ。
静かな部屋には楽しそうに弾みながらも落ち着いた音が流れている。
モニターに向かい座る。健二はくつろいでいた。画面が映している場所は、場所は、オズが提供しているサービスの一つ、プライベートチャットルームだ。そこに四人のアバター。三人集まることは多くても四人は珍しい。あまりない組み合わせだが、楽しい。
スピーカーから流れ出るサウンドは、この部屋だけの曲だった。エリアによって、ルームによって、はたまたコミュニティによって、それぞれ流れている曲も違う。オズのオリジナルサウンドは、人気がありマーケットでアルバムとして売られてもいた。
チャットルームと言っても、色々なものがある。文字だけだったり、ビデオを使ったり、音声だけだったり、と、オズはユーザーの要望に応えており、そのなかでも最も人気のあるチャットシステムはルームを貸し出すものだった。電脳空間の個室を借りられるのだ。
個室でパーティをするのも自由ならゲームをするのも自由、また本を借り受けたりもできる。
独立していて他者から見られぬが、ログの保存をサーバーでされていて、万が一犯罪等の行為があり警察からの依頼があれば開示されるものの、基本的には個人情報として守秘されている。
健二たちがいるのもそんな場所だった。
玄関があって、窓がある。どちらもロックは当然のようにされていて、ルームマスターが発行する鍵がなければ開かない。
ひと時のプライベート空間を、という謳い文句と共に好評を博していた。
健二も初めて佳主馬に連れられて訪れたときは、まるでワンルームマンションの一室だと思った。
白い床と、中央に敷かれた赤い織物。その上に、優しい木目柄の小さな丸テーブル。
壁は白地で、時計盤が直接そこに掲示されていた。夜空の壁掛けもある。
茶色の二人掛けソファには同じ色の大きなクッション、右横に鉢へ植えられた観葉植物、背後は大きな棚で書籍が並んでいた。手に取ることができる。
玄関から正面に大きな窓。その下に造り棚。照明が飾られている。
ソファを背にした正面は、テレビがある。電源をつければ、オズ内であればモニターされていたし、地上波も捉えた。
この贅沢な場所は、先着順のレンタル式だ。
つまり運が良ければ借りられる。部屋から出るか、そこでログアウトすれば部屋を返したことになるが、借りるときはフロントでノンプレイヤーアバターに手続きを依頼する。ホテルでチェックインをするように。
空を泳ぐクジラがいる世界は、ところどころで日常を思い出させた。
現実と等しい空間はあくまでも同価ということで等価ではないと知らしめている。
この日は運が良かった。ルームマスターは健二だ。なんとなく受付で問い合わせたところ、空きがあると言われて思わず借りた。佳主馬へすぐにメールを打ち、明日提出の課題を問うてきた佐久間にも教えた。そして佐久間から聞いた侘助もやってきた。だから四人。
「そういえば」と最初に言ったのは佐久間だった。サルがバルーンをぴょこんと表示させている。
健二は佳主馬とオンデマンドの映画を敷物に座りテレビで流していたし、ソファに座る侘助は隣の佐久間が叩いているキーボードの向こう側の四角いモニターを堂々と覗き見ていた。健二のところからではちらりとしか見えないが黒地に白い文字が映えている。コードだ。制作途中のプログラムは齧られた林檎でしか動かないアプリケーションだと聞いている。オズにまつわるプログラムは管理棟に入らなければアクセスできないようになっているし、いくら気心がしれた相手しかいないとはいえ迂闊なことはすべきではなく、また親友はそういったところでは明確な区切りをつける。
「なに?」
「いやね、みんな知ってんのかなぁと思って」
話しながら、邪魔だと思ったのか佐久間は目前のモニターを横にどかせる仕草をした。瞬時にキーボードがモニターへ折り畳まれテーブルに移動する様子には慣れたが、相変わらず不可思議と不思議が同居しているとは思う。
「なんの話?」
侘助が聞く。彼のアバターがハテナマークを頭上右あたりに出した。
「どこに話し飛んだの?」
映画を途中で止めて、健二は尋ねる。中盤にかかっていたミステリー。かすみが死んで、だれが殺した? 終盤じゃなくてよかった。
「お前じゃあるまいし飛んでねーですー」
佐久間は首を振りながら答えた。
「飛ぶ前に落ちてるよね意味わかんないし」
飛ぶ鳥を落とすウサギが言った。
「……キング容赦がない。ガチでない」
泣き顔のマークを出す。
アバターの頭上あたりに出現するこれらはエモーションと言って感情表現を現すものだ。慣れれば無意識に出せる。健二だってお手の物だ。
「そんでそんなたいしたことじゃねぇんだけどもね? 人探しの、ええっと、マルチポストのやつなんですが」
マルチポスト。あちこちのコミュニティで同一の内容を書き込んでゆくことだ。嫌う人もいるが一刻も早い返答が欲しければ複数に書き込んでしまうのも、わからないでもない。
ふむ、と思った。アバターに指示を与えていないからふわふわと機嫌が良さそうに待機エモーションを出している。
「人探しって、ああ、あれか」
納得した様子の侘助が、健二をまじまじと見る。かたたん、とキーボードを操作してリスを少しだけ移動させた。つまり佳主馬を壁にした。八頭身を盾に二頭身が隠れる。佐久間と侘助が防波堤越しに見ている気がする。佳主馬もまた意識はこちらにあるようだ。
話題にされるとは思っていなかったから、思わず隠れてしまった。
そうしていると佳主馬に捕まって向き合わされて、今度は侘助ではなく佳主馬と視線が重なり、健二はへらりと笑ってしまった。リスがぱあっとしたエモーションを撒き散らす。いやだって、嬉しいだろう、好きな相手と目が合ったりしたら。佳主馬も滅多に使わないエモーションをだしたので更に嬉しくなった。
モニターのなかで、ウサギとリスが見つめ合っていて、健二はそれを見ていているだけで佳主馬の様子がなんとなく想像がついて、目を細めてしまう。
それに侘助がなんとも口を挟もうかと迷った風にして、ソファに置かれていた小さなクッションを投げてきた。
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