は じめまして、どうもこんにちは
木々のざわめきが近い。車の排気音は遠い。濃い緑の匂いがする風は気持ちよく過ぎてゆき、光合成を促す日差しは惜しみなく降り注ぐ。まるで映画かドラマのなかに入り込んだようだ。
木張りの廊下は時折、ちいさな音を足元で立てる。修学旅行で行った寺院のようだが、築年数を考えるともしかして同じくらいだろうか。
蝉の鳴き声につつまれて廊下をすすむ健二の目的地は明確にはない。人気のないところを探しているのだが、それがどこにあるのかわからなかった。
角を曲がれば典子を探す真緒と衝突したし、障子を開ければなにやら話していた万助と万作が笑ってどうしたと聞いてくれた。
こんなにも大きな屋敷なのにどこへ行っても人の気配がある。慣れない。知らない家族の姿で馴染みもないそれは健二に一つの感情をもたらすが、正視できないのでひっそりと視線をずらす自分に苦笑しか浮かばなかった。
二階への階段は途中で見つけた。さすがにあがってゆくのは憚られる。
廊下は行き止まりだったり回り道だったり、まるで迷路のよう。四つに分かれた分かれ道、戻りはしないから三通り、曲がらずまっすぐ進むと明るい庭に面した廊下の先にぽっかりと暗い口をあけた物置みたいな小さな部屋を見つけた。おそるおそるなかを覗って人がいないことを確認し、そろりと周囲も探る。誰もいない。返す眼差しで自分の姿を再認識。パンツにシャツ。いつもどおり。男だとも女だともとれる服装。夏希の要望を叶えるには少々心もとない気がした。男だと偽るには少々危うい。
「おじゃまします」
小さく呟き、足を踏み入れた。影になったせいか熱が下がる。冬に使われる暖房器具が直しこまれていて、健二の予想通り物置だと思われた。流石にこんなところに人は来ないだろう。
夏希とは、縁あって物理部の部室へ良く来てくれるから親しくはあるけども正直なところ居るフィールドが違うのではないかと思ったりもする。だけど、垣根がなく、輪の中心で笑っている彼女には憧れていた。優しいながらもきっちりと意見を主張して実行できるのは長所だ。やりたいようにやって結果を残すのは難しいと数学オリンピック代表に成り損ねた健二は良く知っていた。惜しかったと慰められてもそれが健二の実力で、けれど割り切れないからいつまでも引きずっていたのだが夏希のおかげでそれも吹き飛んだ。
まさか男のフリをして婚約者として振る舞えだなんて。
バイト内容を尋ねるたびに話をそらされていたせいだが、しっかりと確認をしなかった自分も悪いのだろう。ただの荷物運びで、人手不足を補うための手数くらいだとしか思っていなかったのだ。
だが最終的に引き受けると決めたのは自分だ。
押しに負けてしまったせいもあるが、なによりも曾祖母の体調を心配する夏希に強く出れなかったのも理由の一つだし、困っていると言われれば力になりたかった。それにたかが数日。もとより健二は男としてみられることも多い。
引き戸を閉めて着替えはじめる。
隙間から差しこむ光のおかげで暗すぎもせずちょうど良い。閉めた途端、空気の流れがとまったような気がした。
自分が女だと見られないのは女性らしくない体格と格好のせいで、けれど女だから当然下着はすべて女性用だ。キャミソールも着ている。もし見えたりしたら不味いだろう。
鞄のなかを探り、持ってきた着替えのなかからシャツを選んで着ていたキャミソールと変えようと半分ほど脱いだところで扉が開いた。
背後から蝉の鳴き声が大きくなって届く。
遮られていた光で部屋が明るくなる。振り向いて目が焼ける。誰かがいる。眩しい。どうにか胸元を隠す。でも、誰がこんな物置に。
「あんた誰」
落ち着いた、あまり抑揚の感じられない少年の声。健二は驚いたあまり心臓が飛び出そうなくらいどきどきしているのに相手の平然としたそれに、聞かれているから答えなくてはと思うのに、なんと言えば良いかぐるぐると回って答えがはじき出せない。
黙っていたら言葉を変えてもう一度問われた。
「まさか泥棒?」
「どっ、なんっ」
「パソコンあるし。そうなの?」
指差された方を振り向いて見れば確かにノートパソコンがあった。あることにすら気付いていなかった。サイズから見て格安パソコンではない。物置じゃないの、ここ。
「ちが、ぼく、あの、泥棒じゃない。泥棒なんかしてない!」
慌てすぎてつっかえて、それでもどうにか叫ぶように訂正した。両手を振ろうして離せないことを思い出してバランスも崩す。板間が迫ってきてひじで体を支える。辛い姿勢だ。
数瞬の間が空いて、呆れた笑いを含んで空気が揺れる。訝しげなのは変わらないが、厳しさは和らいでいることに気づいてほっと息をついたがとんでもない濡れ衣だった。
泥棒だなんてありえない。
盗めるものなど、得るものなど、ぼくにはなにもない。
「そうだろうけど。なんでこんなとこで着替えてるワケ? ていうか、ほんとに誰?」
答えられなくてはただの不審者だ。
「あ、えっと、あの、小磯健二、です。夏希先輩の」
夏希に招かれてここにいるだけの部外者。
「ああ、あんたがそうなの」
「へっ」
「母さんたちが言ってた。でも、……彼氏? あんたが?」
一度区切られたあとにまじまじと見られて聞かれる。頷く。
「見えない、かな?」
いつまでも肌を見せていたからそっと出来るだけ自然に服を下ろした。その動作を見咎めたのか、相手の眉が少し動く。今は別の意味で心臓が動いていた。いくら健二が男によく間違えられるとはいえ、着替えは致命的なのではないだろうか。
やっぱセンパイ無理があると思いますと居ない相手へ胸中で叫ぶが当然、誰にも聞こえていない。
「いや……。男なの?」
「彼氏だもん」
言い切って相手の出方をうかがう。旧家出身で東大。さらに留学経験あり。そのどこにも該当しない健二は相手の出方を待つ。
何か考え込むようにしていた少年と、ふと視線が合った。
「協力、してあげようか?」
「へっ」
「お兄さん。で、居たいんでしょ」
「だって彼氏だよ。男だよ」
「うん、そうだね。ねぇ、おねえさん?」
「え、ちが、えええ?」
今度はさっきとはまた別の意味で言葉を失った。手で顔を覆う。意味をなさない呻きは明確な言葉にならず、待ちくたびれたのか少年がしっかりとゆっくりと言った。
「落ち着いて言いたいこと言ってみて」
ばらばらと一向に纏まろうとしない言葉たちに見切りをつける。センパイ、やっぱ無理でした。
だけど、どうして。初対面で気付く人間はそういない。
指の隙間からこっそりと見る。
「あの……なんで気づいたの?」
「ああ。お姉さん後ろ向いたでしょ。僕がパソコンって言ったとき。そのときだよ。前隠してても後ろ隠せてない」
背中を手で探るとシャツの後ろにあるホックに触れる。納得した。
「ええと。大変失礼しました……」
ふかぶかと言うと今度こそ堪えられないと吹き出された。
「男で居たいんでしょ。あ、忘れてた。僕は佳主馬。夏希ねぇの従兄弟、いや又従兄弟? どっちにしても親戚。あ、夏希ねぇには秘密にしといて、僕が知ってること。とりあえず、あらためて、よろしくねお姉さん」
そうにこやかに言われてしまえばこちらこそと答えるしかなかった。
こうやって健二の知らない夏が始まった。
に ライカナイ ネガイカナイ