■■■■■
今年の春は例年よりも訪れが早いようだ。
冬将軍は、まるで追い立てられるかのように早々と退場し、地中で準備をしていた植物が芽吹きだしている。
大学の敷地内に足を踏み入れ、所属している研究室までの道すがら、変化の兆しを見つけてゆくと心なしか気分が弾む。
背の高い葉を茂らせた木々が幅の広い道の両側に並んでいる。夏場は蝉の大合唱を招きつつも恰好の日陰になるが残念なことに夏は遠かった。
並木道に植えられている木々は、ある程度の統一がされていて、時折アクセントのように白くて大きな花やそれの色違い、赤みの強い花を葉のようにしている木々が彩る。それらの名を知らぬことを残念に思いながら、健二はこの道を歩くたびに咲くのを楽しみにしているそれに目を止めた。桜だ。この通りに一本だけぽつんとあるそれは、咲き乱れるには早いようで蕾は固く閉ざされ、花の色も伺えない。
入学してから知ったことだが、桜はキャンパスのあちこちに植えられていた。花見スポットとして桜の並木道もあり、そこは時間と場所を選ぶと学生や教授はもちろん、一般の方で賑わうのだがこの分では閑散としていることだろう。
目線に近い枝から視界を地面へ移す。
街路樹の根本には、ささやかながらも強く存在を主張している植物があった。とげとげした葉が特徴的な黄色のたんぽぽ、青や紫の葉よりも小さな花々が緑のうえを散らばっているし、シロツメクサは三つ葉や四つ葉を群生させていて、茂みは柔らかそうだ。
以前なら見たところで何も思わなかったそれらに意識を向けるようになったのは、ここ数年のことだ。
二本生まれの東京育ち。四つの季節が順に巡るこの国では特段珍しくもなくまた当然だと思っていたし、だからこそ特に何かを思うこともなかった。
正直なところを言ってしまえば、四季の移り変わりに伴う衣替えは必須だから面倒くさくて好きではなかった。夏は苦手な害虫が活発になるし物はすぐに腐る。秋はいつまでも熱くて夏との区別がつきにくく、ようやく涼しくなったらなったで寒すぎる冬だ。雪が積もることは稀だが地面が凍ると滑りやすくなるため危ない。春はうららかと言えば聞こえは良いもののどうにも眠たくなる。つまるところ、ずっと適温であればいいのにと考えていた。春夏秋冬、どれもいらなかったわけだ。情緒がないことは百も承知でしかし改めるつもりもなかったというのに、どうだ。
春の訪れを暖かな気持ちで迎えて暑い夏を恋しがり、秋の涼やかさを求めて冬の厳しさにともすれば身をすくめそうにもなりながら怯まずに引き締めるものだと知った。そうすれば、四季も悪くはない。
向かいからひんやりとした風が吹く。髪を乱すような強さではないが肌寒さを覚えた。
昼に近い時間ではあるものの太陽はまだ十分に空気を熱しきれていないらしい。出かける前に見たテレビの天気予報は陽気な晴天で、四国で開花宣言がなされたと報じていた。花散らしの雨は当分心配しなくていいらしい。
カーディガンの袖へ自身の手を潜り込ませる。手先の冷たさに眉をひそめ、深呼吸するように静かに息を吸い込む。冷たい空気と暖かい空気が混ざることなくそれぞれが両立している。共通点は、どちらも甘いこと。どこからも冬の気配を感じ取れずに春を嗅ぎ取る。花の香りがひっそりとひんやりと浮遊していた。
発生源はどこかと探し、教室棟の一階、大教室の窓際で並んだプランターに凛と咲いている白い水仙を見つけた。その様は佳主馬を思い出すけれど、花に例えられたと知ったら嫌がりそうだ。でも、なんとなくだが似ている。どこがかと考え込み、答えをだした。
清廉で人の目を惹くところだ。
そして水仙でそう思うのは、今日来るからだ。
どこかの高校の制服を着た男の子が一人で学内地図を見ながら周囲を確認していた。
「はるやすみ、だなぁ」
小さく呟く。
健二の通う大学は広い。新入生が事前に見学にでも来たのだろうかと思ったが打ち消した。それなら卒業しているだろうから制服は変だ。来年の受験を控えた見学者なのかもしれない。老年の夫婦が二人で仲良く歩いている。散歩だろうか。春休みで同大の学生が少ないから部外者の姿が良く目立つ。
春休みも残りわずかだ。二月の末から健二の休みは始まっていたけれど、終わりは多くの学生とあまり変わりがない。
健二が一人暮らしを始めて早二年になる。
大学への入学を機に独り立ちをした。両親は揃って引き留め寂しがったが遅かれ早かれ子どもは親から旅立つものだし、健二は物質的に適度な距離を保ちたかった。近すぎると様々なものを望み過ぎるのだ。夕飯を一緒にとったり、いってきますと言ったときに返事が欲しいだとか、そういった些細なことだが叶えられないことで恨むには健二は両親を愛していたし、難なく受け入れられる大人にもなった。
高校卒業記念に買ってもらった腕時計をちらりと確認して、呼び出した教授が待つ研究室へと急ぐ。昨日の夜に、ちょっと来てよ、と携帯に連絡があったのだ。呼び出される心当たりもなく、時間のかかるものでなければ良いと願っている。
今回の佳主馬の訪れは、急なものだった。なにせ知ったのは今日の朝だ。のんびりと大学へ行く準備をしていたところに佳主馬のメールが届いて、十五時に着くという。
驚き慌てながらも、とにかく散らばっていた本たちを重ねてスペースを確保した。散らかしているつもりはないけれど、それでも一人でいると片づけを後回しにしがちなのだ。
呼び出しに時刻の指定はなかった。だから昼過ぎに出ようと思っていたけれど、朝食もとらずに部屋を整え、早い昼食をとって家を出た。佳主馬が来るのなら用事は手早く済ませたい。
佳主馬との付き合いも、今年で三年目になる。
出会った時は十三歳の中学生だった少年実業家は、今年で十六歳になり少年から脱しつつも仕事はますます波に乗っているらしい。
緊迫した受験を乗り越えて志望校の合格発表の日は健二のほうが落ち着かず、しかし結果を嬉しそうに写メールで速報のごとく送ってきてくれたことを思い出すと笑みがこぼれる。
一週間後に入学式を迎えて高校生になる彼の肩書は、さて、現時点では何になるのだろうか。中学生でもなく高校生でもない。人生で一度きりの曖昧な時期は、健二も過去経験した期間だ。通り過ぎてしまった一幕だが、佳主馬にとっては今である。
久しぶりに会うというのに、登校せねばならず下手をすれば迎えることもできない現実にため息を着く。どんな用件を言いつけられるのかは不明だが、十五時までに終わればいいなと思う。
教授は好きだし講義も興味深いがタイミングが悪かった。
教室棟から離れていくと別の棟が見える。五階建ての新しくもない建物の一階が健二の所属する研究室だ。大教室よりも狭くて小教室よりも広い。三十人も居れば満室になるが、そんなことは滅多に起きない。隣の準備室に教授が居ることが多かった。
建物のなかに入る。そうすると古びた匂いが漂う。季節で左右されることのない空気だ。廊下は静かでスニーカーのきゅっきゅとした音だけが響く。
横滑りの扉を開いて研究室に入る。
とたんに、紙の匂いが強くなり、古くなった研究用のサーバーの音が響いている。メインのサーバー機の入れ替えで、古いものは廃棄処分となりかけたのだが、学生の研究用として使うということでこの部屋にある。ただし古いのでモーターの駆動音が大きいのだ。煩いがそれも耳慣れたら気にならなくなった。誰かが居るらしく、明りがついている。
研究室には入ってすぐ視界を遮るスチール製の棚の背がある。元はクリーム色だっただろうに、ところどころその塗装が剥げてしまい赤く錆びた鉄色が年月を感じさせた。カレンダーや伝言板、みんなで遊びに行ったりしたときの写真、メッセージカードが伝言板よろしく貼り付けられている。便利だがそのおかげで出入り口は狭い。
そこを抜けると雑多な研究室のメインだ。
背面をボードとして利用されている棚は、正面ではまっとうな使い方をされている。つまりたくさんの本やファイルが詰まっているのである。タイトルを見てすぐになんの定理か解るものや、英語で書かれたものなど、並びきれないほどである。あぶれてしまったものはすぐそばの大きな楕円形の机に無造作に積まれていて、定理の解説が書かれた黒板を正面にして、佐久間が座っていた。学生用のたくさんの椅子はある程度、隅に寄せられている。
邪魔なものをかき分けて確保したスペースに自前らしきノートパソコンを設置しているようだが、埋もれていて良くは見えない。カチカチというタイプ音は佐久間のものかと納得すると同時に、なぜ一人なのかという疑問が湧き出る。
「どしたよ」
入口で立ちどまる健二に佐久間がこちらを見ないままいぶかしげに尋ねた。
「教授は?」
聞きながらも首をかしげる。学年が変わる休みだから人の少なさには納得できる。だが、呼び出した本人はどこにいるのだろうか。
たた、と音が途切れて佐久間が健二を見て、健二とは逆のほうに首を倒した。
「……まだ来てないよ?」
「……なんで?」
「なんでだろうな」
倒した首を戻せば、佐久間も戻した首をすくめた。
だが健二は諦めない。
「いつ来るの」
普段の教授を思えば確率の高い可能性に思い至るのだが、信じたくない。
「俺が来たときには居なかった」
「わかった、あっちの部屋だ」
隣の準備室を指さした。
親友がいい笑顔でぱちんと手を鳴らした。
「残念!」
顔と動作と声音がちぐはぐだ。
「わぁん! 佐久間の役立たず」
「ははっ。何かわいいカッコしてるくせにその口の悪さ! ちょっと詳しく言ってみろ三文字で」
「センパイに言っとくね」
「聞いてるのかお前は」
舌打ちしそうな佐久間をものともせずに、健二は来た道を辿る。今更気にするような間柄でもない。
部屋に入ったところにあるカレンダーはゼミメンバーのスケジュールが記されている。全員分ではないけれど、教授の行き先は必ず書かれているから、教授に用があるものは皆がそれを見る。
「今日って何日だっけ。三日?」
声に出して確認する。訂正の声があがらなかったから、日付を指さして確認した。
「なにこれ、フィールドワーク?」
読みやすい文字から書いたのは先輩の誰かだろうとあたりをつけた。間違えても教授ではない。教授の文字は汚くはないけれど、主張が激しく枠からはみ出るからだ。文字を見つめた。フィールドワーク。課外授業。ということは、先輩の誰かが教授と行動を共にしているらしい。
「ん? ああ、思い出した。なんか言ってたな。加藤さんが勤めてるとこのシステムがどうのって。あ、だからか。どーりで先輩たち来ねぇって思った」
謎が解けたといわんばかりの明るさに、がっくりと肩を落とした。
教授は外部の企業と三方良しな関係を築いている。企業と学生と教授自身で三方である。フィールドワーク――現地調査ともいうが、それに学生も連れてゆくことがしばしばあるのだ。学生側は将来の職場見学になるし研究の成果を見ることが出来る。企業側は学生の資質を見ることが出来、教授としては最先端の技術を見せることで学生の奮起を促せるし、企業側へは優秀な学生を育てる手腕を見せることが出来る。説明されたわけではないから健二と佐久間の憶測である。
参加できるのはその時々の条件にもよるのだが、院生や先輩がおもで、健二も佐久間も数回ならば参加したことがある。健二たちが関わったのは世界的に有名な企業のとある開発プロジェクトだったが、興味深く為になった。
だが。それはともかく。
「……ぼく呼ばれて来たのに?」
「忘れたんだろうなぁあのひと」
頭の片隅を陣取っていたことをあっさりと言われた。無意味だと教授のことを知るものならば誰もが言うだろうが、それでも反論を試みる。
「そんなことないよって言ってあげたいんだけど」
だが、失敗した。思ってもいないことを言い切るのは存外難しいものだ。
うんざりとした声音に佐久間が笑った。
「無理じゃね」
カレンダーの前で項垂れる。これまでも何度かあったことだ。
好々爺という言葉が似合う初老の教授は、人は良さそうに見える。たまに厳しいことも言うけれど、間違えたことではないからそれはいい。酷いのは予定の重複だ。アシスタントと呼ばれる院生がフォローしてまわっているが、それも十分ではないようで度々こういうことが起きる。
気落ちしながら時計を見て、結果的に余裕が生まれたからテーブルまで戻り適当な椅子を手前に引っ張っりだして座った。
「で、健二はなんでそんなカッコしてんの?」
「センパイと買い物行ったから」
キャスターのついた椅子は足で床を蹴ると反動でくるりと簡単に回る。
「ああ、なるほど。だからセンパイに言うわけね」
「うん」
本日の姿は夏希のコーディネイトだ。
モスグリーンのカーディガンは胸元にリスの刺繍がほどこされていて、その下には綿のワンピースだ。たくさん着いているボタンがレトロで色は薄い青。裾が膝まであり、スカートに抵抗があると見てとるとレギンスを渡された。縁のレースが可愛いくて、センパイの一押しだ。靴は赤と白のコントラストが奇麗ではあるものの目立ったところのないスニーカー。だが、ポイントは靴下にあるのよとアドバイスを受け実践している。
服装に対する意識も随分と変わったとはいえ、買い物は不得手だった。どういうものがいいのだろうと手探りしているときに、着飾った店員に話しかけられたら言葉に詰まる。
見かねた夏希が連れ出してくれてとても助かった。母が買って送ってくる服は、長い間、男物を好んで着ていた反動かそれとも娘に何か言いたいことでもあるのか、女の子をアピールしすぎていてどうしても抵抗があったのだ。
自分ではない誰かになりたかった。
健二が欲しいものを手に入れられないのは健二が健二であるが故だと思ったからだ。自分を否定していれば正反対のものに行き着く。だから男になりたいと願っていた。女だったから男に。単純にして明快で、だからこそ服装一つで印象が変わるという手軽な変身方法当時の健二は気づかなかった。
けれど、気付いて実践したところでそれは違うものだっただろう。装いを変えても健二は健二でしかなく、また、違うものになったとしても、それは健二でしかない。そして、求めているものと違う結果を苦々しく思って、違うものになんてなりえないのにそれを強請リ続けていたに違いない。
今では笑い話になる不毛さである。
「色んなのがあるのに毛嫌いしすぎててもったいないんだって」
夏希に勧められた服を着た自分は、確かに以前とは違う自分だ。しかし同時に、どこからどうみても健二自身だった。
「ふぅん。良かったじゃん」
しかしジーンズとシャツの組み合わせは万能だろうと考えているのは秘密だ。
「でも好きな系統見つけるまでが長かったし……怖かった」
「はぁ? 怖いってなにが。買うまで離れない店員? それともまさか服が襲ってくる?」
「いや、センパイが」
的確な言葉が見つからない。恐怖の対象だった店員は夏希がうまくあしらっていて惚れ惚れした。
「襲ってくるのはセンパイかよ。ガチでか。やべ、ちょっと見てみたい」
「それなんてサバイバル」
今でも剣道場に通っているかつての学園のアイドルの戦闘力は高いに決まっている。武器はもちろん竹刀だろう。襲われたとして、健二も佐久間も足止めにもなりはしない。二人ともアクションゲームならチュートリアルに出てくるキャラクターくらいの戦闘レベルだ。
「ははは。つか、久しぶりだなセンパイ。どだったよ。元気そ?」
先日の彼女を思い起こすように、かしゃかしゃとキャスターを前後にゆっくりと動かした。
体調は良さそうだった。が。
「就活なんて滅んでしまえって荒んでた。すごい勢いで買ってた。ストレス溜まってるんだと思う」
心をこめて真剣に言えば、佐久間が僅かに引きつった。健二もそれに同意する。
就職活動は健二達の学年ではいささか早すぎて実感はないが、先輩にも似たようなことを言っている人はいるし、なによりも就職氷河期と言われて長く一向に温暖化が進まない。いつかは我が身だ。
「あー……まぁ。うん。元気そうだ! 俺も遊びたいから今度は呼んでよ。もうバイトは腹一杯だっての」
なかなか複雑な声音に笑う。
「そうだね」
「でも、スカートねぇ。お前がねぇ。ふぅん」
客観的な視線で眺められて一人で頷かれる。
「なに」
「いやぁ? いいんでないのそれ」
「佐久間に認めてもらってもなぁ」
しみじみと呟いたところで、ガラガラと扉の開く音がした。誰かが来たらしい。それが教授だといいなと棚のほうを見ていたら、佐久間が言った。
「お前は俺にもうちょっと優しくしても罰はあたんないと思うよ? ていうか、態度やばいだろ。こんなんキングにもやってんじゃないだろな」
これでも長年の友達なのに、と言外に告げて、妙な心配を見せる親友に笑って見せる。だって佐久間と佳主馬は同じではないし。
やれやれと首を振られたが、気にもならない。
・
・
・
・
・
・
・