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仕事をまったくさぼらない太陽が炎天下を演出している金曜日の午後、学校からの帰り道は明日が休みということもあって体育のあとだというのに浮かれ気味になる。
教室は風が吹き込んでこないからこもる暑さがあるが、まわりに遮蔽物がない環境になると今度は太陽が敵にまわって味方だったはずの空気の動きは熱風になり果てた。敵にまるっと囲まれているので、建物や街路樹の影を選んで歩く。限度はあるが、それでも影は涼しい。暖かくなりはじめた頃は道路の両脇に植えられた桜が咲き誇りまるでトンネルのようだが今は緑葉が茂っていて光を遮っていた。蝉の抜け殻を見かけるものの、本体はどこかへ飛び立ったらしく姿がない。
歩道と車道はガードレールで区分され、後ろから走ってくる自転車にさえ気をつければ安全な通学路だ。
夕方にも近い時刻をしているのに、太陽の位置はいまだに天高く、必然的に影の量も変動している。
制服の白いカッターシャツの首元のボタンはすでに三つ外していて、ぱたぱたと外気を取り込もうとするのに、あまり温度の変化は感じられなかった。
去年、入学してから仲良くなった隣を歩く江本が、緑色の下敷きで頭上の太陽を遮っているのを横目で見た。テスト前の勉強時に役立つ赤色のマーカーで引いた部分を透過させず黒く見せる効果のある下敷きに太陽の遮光効果が期待できるのか疑問が残るが検証する気はない。
クラス替えをしてから佳主馬が一緒に帰る友人としてはもう一人、宇野というのがいるが、こちらはサッカー部で青春を謳歌しているため帰りはあまり一緒にならない。
五十音順の出席番号は知り合うきっかけとしては十分だ。
「冷たいコーラ飲みたい」
連日、最高気温を更新し続けている夏日和、佳主馬が持ち込んだ凍らせた麦茶のペットボトルはかろうじて六時間目までは保ったがそこまでだった。からっぽのペットボトルが恨めしい。学校のウォータークーラーでペットボトルを満たせば良かったとは思うものの、あとの祭りだ。水筒に比べると軽いのが利点だが鞄のなかで場所をとる。来週のために、帰ったらまた凍らさなければならない。
「えー?」
「あとお腹すいたんだけど」
「わかるよ体育のあとってやばいよなぁ」
金曜日の六時間目は体育だった。身体を動かすということはそれだけエネルギーを消費するということだ。育ち盛りだから尚更。それに水中での運動は少林寺拳法よりも消耗が激しいような気がする。
「毎日でもいいけど、プールなら。暑いし」
難点をあげるなら空腹になることだ。
授業後にタオルで適当に水気を取った髪は天然のドライヤーで乾きかけていて、塩素の匂いだけを時折漂わせた。
幼稚園児くらいの黄色い帽子をかぶった女の子が、年老いた女性に手を引かれて歩いている。追い抜かすと、前から小学生らしき男の子がガラガラと鮮やかなエメラルドグリーンの車体に戦隊ヒーローの勇ましいイラストが描かれた補助輪付き自転車でやってきて、なんとはなしに振り返り見送ると、おにいちゃんが迎えにきてくれたね、と言っているのが聞こえた。
妹を思い出す。おにいちゃんとも佳主馬ともまだ言えない年齢だが気にならないくらいに無条件で可愛い。佳主馬の真似をしてパソコンに触っているのも可愛い。キーボードが多少べたつく程度ならば我慢する。今頃はもう保育園からも帰っているころだろう。
歩道の赤信号、学校に近い場所だからか歩者分離型で車だけが行き交っている。歩行者にも運転手にも歩者分離型は安全を提供するが、いかんせん待ち時間が長い。
歩道の向こう側には三面を住宅に囲まれていて道路に面した部分だけが出入り口になっている、ブランコとかつては青かったであろう塗装の剥げた滑り台の小さな公園がある。藤が一本、棚になるようしつらえられていて、しげみの下のベンチで寄り道をすることが多い。桜が散ってから薄い紫色が鈴なり匂いを放ち蠱惑的だ。夏は影になるから絶好の日よけになる。寒い冬はそもそも寄り道をあまりしない。
公園の右隣に、シャッターの開けたところを見たことのないタバコ屋があって、タバコの自動販売機と並ぶように飲み物も売られていた。
「あ、あれ買うから待ってて」
先ほど抜かした子どもたちと老婦人も佳主馬たちの後ろで立ち止まる。
歩みを止めると、よりプールの匂いが近くなった気がした。消毒薬の匂い。プールコートのそばの蛇口から繋がっているホースで水泳後、冷たい水を頭に掛け合ったのに、と思ったが、プールに全身あますところなく飛び込んでいたわけだから匂いの出所の犯人は髪の毛だけとは言えないのかもしれない。
「んー、それよりもアイス食って帰んねぇ?」
良いことを思いついた、という顔をして江本がこちらを見る。
走行していた車がゆるやかに停車して、歩道の信号が青になる。歌詞のない童謡が流れ出したのを聞きながら言った。
「コンビニ行き過ぎたじゃん……。言うの遅いよ」
青信号なのに進まない佳主馬たちを、後ろで待っていた人が追い抜かして行く。
煙草とジュースがあってもアイスの自動販売機は残念なことに設置されていない。
「戻ろうよ」
「ガチで」
誰かさんの口癖がすっかり移ってしまった。たまに江本も宇野も言っている。なまじ言いやすいせいで、つい口にでる。
「涼しいよ」
「……だろうね」
空調が効いた店内は、どの季節に訪れたって癒しの空間でもある。さきほど前を通り過ぎたコンビニまでは十分もしない距離だ。佳主馬がしぶっていると見えたのか、もったいつけるように奥の手らしきものを追加してきた。
「仕方ないな、俺がアイスおごるから」
「ガチで」
気前の良さに驚いた。佳主馬はともかく、金のなる木でもない限り中学生の懐は豊かではないことが多いのだ。
「ガチだぜ。ただし俺が選んだやつに限る!」
威勢良く言い切り颯爽と方向転換、佳主馬は着替えと教科書などが入った臙脂色の通学バックを持ち直し後に続く。指を見れば皮膚がしわしわになっていた。
江本の普段に似つかわしくない大盤振る舞いにいぶかしみ理由を考えて思い当たった。
「あ、わかった。アタリひいてたんだっけ」
帰り道にあるコンビニは、年がら年中、手ぐすねを引いて獲物を待っている。佳主馬たちは喜んで狩られる側であるが、極々稀にご褒美が待っていた。その一例が、江本がティッシュに包んで鞄のなかに大事に仕舞い込んでいたアタリと焼き印されたアイスの棒である。
「俺の運に感謝するといい!」
「うん、初めて当てたやつ見たよ。あと、別におごんなくていい。食べなよそれ」
「ガチでか。池沢っていいやつだなぁ」
佳主馬は甘いアイスよりもさっぱりしたものを飲みたかった。それに、百円くらいのおやつなら買ってもいいかもしれない。
「それくらいでおおげさな」
ふっと息を吐くようにして笑いをこぼす。
当たり前の軽口を叩けるような友人を作りにくかったのは小学生の頃で、進学するとそれが幻だったかのように自然に増えた。
佳主馬が通っていた小学校からは三分の一程度の人数が同じ中学校にあがった。こまかな区分は知らないけれど、地区で分類されるらしい。なぜ友人が出来なかったのか、なぜ苛められたのか、それは今だって解らないままだけど、あれは気持ちのよいことではなかったのは間違いようのない事実だ。
「だって嫌そうだったからさ、戻るの。あー、それか家でなんかやることでもあった?」
そうだったら悪かったなぁ、と声に滲ませて並んで歩く江本だが、だからといって帰り道に戻る気配はない。
「別に……オズで遊ぶくらい?」
それだって、強いて言うなら、というレベルだ。仮想世界へは毎日接続している。ただ、金曜日は週末への入り口だ。休日前の平日。つまり夜更かしをして翌日寝過ごしても多めに見てもらえるし、金曜日の夜は定例のようになっているグループチャットがあるだけだった。
相手は一年ほど前に知り合った東京に住む高校生だ。
健二と佐久間。高校三年生だと言っていたから今年は受験生。オズの末端に居るとはいえ保守管理のアルバイトをしている。従兄弟の後輩で、佳主馬より四つ上。佳主馬がマーシャルアーツでチャンピオンだということを知っていて、それでもなお普通に付き合ってくれている。昔からの友人のように。友人らしい友人を得たのが中学校に入ってからだから、普通というのがどういうのかはよく解らないけど。
だけど、付き合いやすいのは、いいことだ、と思う。
「ふうん。オズかー。そういや池沢のアバターってウサギだよな。あれなんで? やっぱキングのファンだとか?」
「ファンっていうか……」
いまのところ、本人です、とは言うつもりがない。
佳主馬はアカウントを二つ持っていて、そのどちらもウサギをモチーフにしている。分身を二人、つまりアカウントの複数所持は規約でも禁止されておらず、ただ新規登録するときに電話番号ないしはクレジットカードの登録を求められる。オズ内で使用できる通貨は現実と同じ価値を持つため支払い能力が必要になるためだ。
アカウントが持つ権限はまた別の設定である。
学校に持っていっている携帯電話は、世界的にも有名な林檎が背面に刻印されたものだ。
中学校への進学祝いとして両親から贈られた。プログラムを組むのならこちらのほうが使い勝手がいいだろうとの父からの言葉もあった。基本使用料と定額プランからはみ出した金額が自費でまかなうことになっている。もともとあった一台は小学校五年の時に契約したもので、キッズ用としてメーカーが出していたものだ。それが今じゃ完全に仕事用として最低金額での運用中だ。月に千円も必要としないくらいなので、二台持つことに罪悪感は特になかった。それに新たにスマートフォンを手に入れたことによって、堂々と友人たちとアバターで交流することができるようになったのだ。もしかすると、その点を心配していたのかもしれないけれど。
「まぁ、なんとなく」
キングカズマは有名になりすぎている。
ウサギといえばキングを連想する程度には。
佳主馬がキングだとイコールで結ぶ者は少なければ少ないほどいい。面倒ごとは起きないほうが良いのだから。
だけど姿を似せたのはやっぱり愛着があるからだし体格もほとんど同じため所有している装備品も使い回せている。佳主馬以外にもキングカズマと似たウサギのアバターはたくさんいるから目立つどころか意図したわけでもないのに森に隠れているような状況だ。二アカウント所持するにあたっての難点は似すぎているせいでどちらのアカウントがキングと呼ばれるアバターだったか急いでいるときに間違えそうになるところくらいで、おおむね便利に使っている。
「ねー今度さーOMCやろうぜー何回も誘ってるけどさー」
同級生の前でマーシャルアーツはしたことがない。手加減が難しい。倒していいなら一分もかからないだろうし、かといって、負けてみせたりするのは、嫌だ。
頭の中でいくつかの別の候補をあげる。連想のようにさりげなく違う話題に繋げる。
「カードゲームか、……狩りゲーならやるよ」
どちらもグラフィックが美しいと話題になっているものだ。連携プレイが肝だとも聞いていて、現在構想中のゲームに参考出来る部分があるならば学びたい。
マーシャルアーツは数ある競技のなかでも上位の人気を誇っているが、ほかにも有名どころはいくつもある。新作もほぼ毎日リリースされていて、隆盛は激しい。インターネットに接続しているという利点を最大限に使い、大型アップデートこそ半年に一度程度だが、何かしらの追加アップデートは頻繁にあった。更新がないものは廃れてゆき、置いて行かれる。
「いっかいテニスとかしてみたい」
現実世界では地域の関わりが希薄になっているとテレビで深刻ぶったアナウンサーが言っていた。
「オズで? コートの予約待ちがひどいけど、あれ。あ、ガッコのコート?」
だけどオズでは画面の向こう側に誰かがいる。
それこそが強みで、だからこそ世界と等価と言われる所以だ。
「その話は去年の冬の体育ですねわかります」
「まぁね。あれ?」
太もものあたりが振動した。ちょうどポケットの位置。
「お?」
「いや、携帯が震えた気がする」
なぜかポケットの布に妙に包まれ込まれていた携帯電話は取り出しにくい。つられたように江本も自身のそれを取り出していた。
「あらん、宇野からなんかきてる」
ようやく出せた佳主馬のスマートフォンは人肌で温められていたのかそれとも発する熱を逃しきれなかったのか、手のひらにずしりと重たい存在を示し、画面のなかでウサギが新着メッセージのログを表示していた。
「僕もだ」
「ほー? クラブは終わったんかね」
コンビニの庇の下で足を止めた。近寄り過ぎたせいで自動ドアが開いて横にどく。ゴミ箱の前だ。清掃していた店員がちらりとこちらを見て、また作業に戻った。一瞬の冷たい空気に汗が冷やされ、快適さを味わう前に熱さがより際立った。
「さぁ」
スマートフォンのブラウザからオズにログインする。パスワードとIDで世界は佳主馬を認めるその瞬間が好きだ。
「池沢もやればいいのにサッカー。好きだろ、身体動かすの。俺はコートのそばでお前らのポジ争いを見守る係な。エースも大変だ」
にやにやと笑う江本に、佳主馬は呆れて肩をすくめる。
「嫌いじゃないけどそれだけだしそんな係はいらないし」
「えー」
「自分でやんなよ」
話しながら参加者三人限定のグループチャットを覗く。インターネットに接続さえ可能ならハードの種類を問わず、なんだってオズと繋がることが出来る。世界を網で覆うように。
チャットルームに繋いだのは江本のほうが早かったらしい。彼はまず、吹き出した。いやいやいや、と言いながら首も振っている。
え、なに。と、思いながら繋いで、思いっきり半眼になり、淡々と読み上げた。
「久しぶりにクラブに行ったと思ったらマネージャーに呼び出されて告白された何を言っているのかわからないとおもうがって」
「アホかあいつは」
容赦と間髪のなさは見事だ。一転、江本はふざけた調子で繋げる。
「なにそれなにそれ俺にも誰か告ってよ!」
言った途端に自動ドアが開いて同じ制服の学生が変な生き物を見る目でこちらを見て、学校のほうへ戻っていった。知らない顔だが指定の鞄の色は同じ臙脂色。同級生になったかもしれない人だ。
「告白すればいいじゃん」
佳主馬たちの御用達のコンビニはほかの学生にとってもそうだ。店内を外からガラス越しに見れば制服姿の学生がちらほらと居る。
「えー、池沢くんは相手が必要だって知らないんですかー、一緒にいたいと思える相手が必要だって知らないんですかー」
「……それなんかムカつくんだけど」
変に伸びた口調が、なんか。うん。
小学生のころとの違いはこういうところでも発揮される。
ほんの二、三年前のことだし、その時ももしかしてこういうやり取りはどこかであったのかもしれないが、たぶん。年を重ねた分だけ意味が変わっている。小学生と、中学生。高校生から大学生。
「ごめんねぇ」
間延びした言葉はちっともそんな気はしないのが不思議だ。
「いいけど」
「どもども。――池沢はどうなの?」
スマートフォンの画面はメッセージの入力欄だ。ぴこぴこと文字を待ち構えて欄が点滅している。
「なにが。告白?」
「そっそ」
「同じだよ江本と」
「あらー。あ、じゃあさ、池沢は言うほうと言われるほう、どっちがいい?」
江本の視線は携帯電話だ。人差し指がすべるようにタッチパネルの上を移動している。
「どっちって。考えたこともないけど」
「ふうん。まぁでも池沢が告ったなら適当に言ってもなんかあたりそうだよな。うらやましい顔してんもん」
「江本に言われても」
褒められているようだけど複雑だ。顔の造作は母に似ているだけのことで、前は女の子に間違われることもあったから。
「へぇ? じゃあ誰に言われたら嬉しいの?」
聞かれるとも思っていなかったことに答えに詰まって、不意をつかれたと思った。褒められて嬉しい相手が浮かんだら心臓が跳ねたからだ。四つ年上の高校生は好きなものは数学だ。そして狼狽えた。それに焦りを覚えて、返答が迷子になった。行く道も帰る道も見失った。
「……なんなの、黙んないでよ。ひみつの恋とでも言う訳? なにそれ超燃える」
ひみつの恋。
「違う。江本の乙女っぷりにびっくりしただけ」
こい?
心臓の挙動をおかしくしくなったりすることが?
いやいや。恋って。なんで。そもそも、もしそうだったとしても恋なんて不満だらけだ。落ち着かないし、それに、そうだ。何よりも相手がおかしい。
江本が携帯電話からこちらの反応を見るように視線をあげて佳主馬を見た。ぶぶと握ったままだったスマートフォンが揺れた。見るとウサギが反応している。
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