homesickness

 

 

 夕暮れだ。
日差しに橙が混じりだして、だけど、ささやかに存在を主張している風は、熱の陰りを見せなかった。
 背中を汗がつたう。冷房がよく効いた電車を降りた瞬間から、体温を調節するべく体の各機能が活発にかつ、順調に動いている。
 駅からマンションまでの道だ。健二の帰りを待っているひとがいる。それがどうしようもなく嬉しい。
 弟のように思っていた存在が、そうじゃなかったと知ったのは去年のことだ。佳主馬からの働きかけがなければ、健二はきっと気付かなかった。佳主馬のそれだけではなく、自身が望んでいることすら。
 佳主馬はずっと一緒にいると言った。そばにいて、と願っていたのは健二だ。
 両親の不仲はいつものことで家に寄り付かない。だけど父も母も大切で、健二は大切な人がそばにいてほしいとずっと願っていた。
 しかし、それがどんなに難しいものか知っている。人生の半分以上、叶えられたことがなかったからだ。
 ずっと一緒に居てくれる人がほしかった。それが彼ならばいいのにと奥底で願っていて、だけども一度だってそれが叶うなんて考えたことがなかった。自分では違うと思っていたけれど、どこかで諦めていたんだろう。諦めることは執着しないということ。良くも悪くもそれは健二の個性だった。
 自らの意思を曲げないことを学んだ今となれば、多少は足掻くことも覚えた。それを健二に教えた一番初めの出来事は、六年前に遡るし、またここ最近ではその去年だ。執着しないことは、無気力に陥りがちだが楽だ。
 両手からぶら下がっている紙袋は、許容量の限界に挑戦している。突破する手助けをしてしまわないよう、出来るだけ気を付けて持ち歩いていた。
 足元を起点としている影は前方へ長い。アスファルトから熱気が空へ逃げるようゆらめいている。温められた空気が昇ってゆくのは理だ。見上げると薄めた青と、それに溶け込むような白い月。洗濯物が干されたままのベランダ。開いた窓からカーテンがひらひらと覗く。犬の鳴き声がどこからか聞こえて塀のうえでは猫が伸びた。
歩道にわさわさと高さを等しくしていた街路樹。すれ違う子ども達は虫取り網を持っている。ミミミと力ない響きも通り過ぎて行った。虫かごをきっと持っているのだろう。
 透けて見える陽光に橙が朱へと進化しだした。電柱から電柱へと渡る電線が、空を区切る。
 子どもたちが囃し立てる声。逃れようともがく羽音。一週間の命は子供たちから飛び去ることは可能だろうか。明るい夕闇のよくあるワンシーンだ。
「元気だなぁ」
 海開きも終わったいま、夏休みのまっただ中だ。
 健二はふと思い出した。これよりももっと濃い日暮れを歩いたことがある。
 当時、健二は河沿いのマンションに住んでいた。父は転勤が多く、その度に家族そろって引っ越しを繰り返していた。
もう何度目かになるのか解らないくらい繰り返された日常の一つなのに、その時のことは夏の夕暮れとして健二の中に息づいている。
 河は市民が交流できるようにと整備されていた。浅瀬を作り水流は緩やかにし、憩いのベンチを複数設け、運動広場を作る。遊ぶ場所に近いからか、土手のそばのマンションは羨ましがられていたように思う。
その日、健二は中身がぎっしりと詰まったランドセルを背負い、肩に絵の具セットをひっかけて、一年生との交流で一緒に植えた朝顔の鉢植えを持って土手を歩いていた。
 珍しくもない夏の記憶だ。だけど忘れていない。
 家路の途中で買い物袋を持った母に出会った。一生懸命抱えていた鉢植えを母が持ってくれた。それで開いた手を、繋いで歩いた。夏だった。忘れられない。
 両手の荷物がずり落ちた。後ろから走ってきた自転車が健二を追い越していった。
 街頭の明かりはまだだ。蝉は子どもの背では届かない場所で鳴いている。夏の夕暮れは長い。
 紙袋の持ち手が、しっかりと握り込まれているせいで存分に滲んだ水分を吸い取り、こよられていた紐が徐々に形状を強制的に戻され、毛羽立つ。
 半日かけて買いだしたものは、ずっしりとした重みで成果を伝えている。一つ一つは大した物ではないが、いかんせん数が多い。塵も積もれば山になるし、積み重なったものはいずれ雪崩を起こすだろうから侮ってはいけないのだ。
 清涼感が足りない風は蒸して鬱陶しい。
 かえりたい。
浮かんだ言葉は足への原動力。買い物疲れももちろんあるから適度に足を速める。目的地は駅からさほど離れておらず、目視すらできる。歩けばその分近づくから気合いを入れた。
 たどり着いたマンションの前で、健二はポケットから暗証番号を書いたメモを取り出し、記憶と照合した。間違えようもないのだけど念のため確認だ。丁寧に折り畳み、仕舞い直す。
 分譲型のファミリータイプ。外観も立派。ここは健二が住んでいるマンションではない。健二の住まいは広さが売りのワンルームだ。大学にほど近く、仕切りのない間取りを気に入って借りた。高校時代のアルバイトの蓄えは、健二にゆとりをもたらせる。実力主義のオズから任せられだした業務と学業を両立できるとは思わなかったから止めた。
 エントランスに入ると日陰と石造りということもあってひやりとしていた。涼しさに一息吐いて、セキュリティを解除するためパスワードを入力。0108。
 名古屋の高校生である佳主馬のものでもない部屋は、侘助が東京で拠点としている一部屋だった。
彼の親しい友人の持ち物で、しかし買った本人は直後に別件で一軒家を入手したという。つまり空き家になってしまったわけだが、それを侘助が友人ということで安く借りた。しかし理由は、誰も住まない家は痛んでしまう。侘助もおおよその場合、不在である。彼はアメリカの研究所に属している研究者だから滅多に東京どころか日本にいない。
そこで彼の甥っ子が登場した。
 甥の佳主馬は度々上京する事情があり、彼らは不仲ではない。そうするとどうなるかというと考えるまでもなく、いわゆる仕事部屋の一つとなった。スケールが違う。
 健二はエレベーターで上層へ上がってゆく。しばしの休息だった。荷物を足元へ置いて、強張った手を解す。
 この建物は、少しばかり緊張を伴う。もう少しばかり気安い建物であるなら躊躇なく来られるのに。だけど、初めて来たときに感じた気後れは薄くなった。
 場違いだと思ったのだ。それこそ、陣内家の正門を見たときのように。
だが、健二の親友も似たような物件に住んでいる。こちらは職場の社員寮だ。
数年前のオズの混乱を収めるため迅速に動いたプログラマは、末端の末端の構成員だった。底辺に近しいところで保守管理を行っていた。
オズは年功序列ではなく実力主義だ。才能があれば遇される。頭角を現した若きプログラマは様々な大人の事情をオブラートに何重にも包み込んだ結果、社員寮が提供された。労に報いる報酬と、優秀な人材を逃さないための枷。現在もアルバイトを継続している親友は、おそらく卒業後もそうなのだろうと思っている。
 さて、その親友が怖気づく健二に言ったことがある。
――俺んちだって似たようなもんじゃね?
 虚をつかれて、ただ見知らぬ場所に身構えていただけだと苦笑と浮かべたとき、脳裏に広がったのは懐かしさを感じる青い空、緑の空気、土の道、山へ沈む太陽だった。
 エレベーターが目的階に到着した。わずかな休憩時間だったが固くなっていた手のひらは柔らかくなった。再び紙袋を持ち上げエレベーターから出たところで西日をまともに見てしまい、目が少しばかりくらむ。調子を戻すよう何度か瞬きをしながら部屋まで行き、重たい腕を宥めすかして持ち上げチャイムを押した。
暗証番号を知っていても鍵を持っているわけじゃない。
 玄関の重たい鉄の扉に手のひらをおしつける。冷たさを堪能していると、勢い良く扉が引かれた。
「お帰り健二さん!」
 インターホンで確認されるとばかり思い込んでいたから構えがなかった。
「わぁっ」
 鍵を開ける音すらなかった。
 傾く体を止められるはずもなく、たたらをふんだところで肩に手を当てられ支えられた。
「っと、大丈夫?」
 気遣う佳主馬を見上げると、なぜか嬉しそうに笑っていた。
 バランスのいい体格、健二よりも少しだけ高い背、低く落ち着く声音、片目を隠してしまいそうなほど長い前髪をピンで止めた青年。
「……ちょっとびっくりした」
 崩れた姿勢を正した。
「ただいま佳主馬くん」
 佳主馬は健二の持つ紙袋三つを受け取る。中身はおもちゃの詰め合わせだ。質と量を天秤にかけると質が上に傾く。
「うん、おかえりなさい。どうだった? 買えた?」
 靴を脱ぎながら答える。
「たぶん買えたよ、たぶん」
 佳主馬は健二から受け取った袋の中身を検分している。答え合わせを待っている気分だ。誤摩化すように続ける。
「あとデパ地下限定スイーツとか、お土産にと思ったんだけど人ごみに負けちゃった」
 『子供たちが遊ぶもの』が欲しいとリクエストを受けたのが昨日。出発を明日に控えていたからずいぶんと急だった。東京なら色々あるでしょうと言われたが、東京に色々とあっても健二は何が喜ばれるのかがわからなかった。携帯ゲーム機でよく遊んでいるからそのソフトとも考えたが、有名なものはすでに持っているだろうし、なによりも複数個買うと財布に打撃だ。
そこで健二は、最良の手段をとることにした。解らないのなら聞けばいい。
「それなら行く前に買えば?」
「ああ、そうだねぇ。佳主馬くんは終わったの?」
「何? 準備?」
「え、ああうん。それもだけど、急ぎのプログラム」
 健二の奥の手は、きょとんとしていた。
 本当は一緒に買い物に行くことができればよかったのだが、急遽飛び込んできた仕事で叶わなかった。
「まぁ……一応は」
「ふぅん?」
 陣内家への里帰りに間に合わせるため、苦虫をかみつぶした顔で佳主馬は一心不乱にパソコンと向き合っていたのだ。だが、健二も同じく里帰りのために土産を買わなくてはならなかった。そこでコードを打ち込む佳主馬のヘッドフォンを強制撤去し泣きついた。アドバイザー就任、池沢佳主馬。いきなり邪魔をした健二に佳主馬はあれこれと教えてくれたが、いくら切羽詰まっていたとしてもあれはよくなかった。集中したいときにそれを妨げられるのは嫌いだったはずだ。健二がすぐにそう思い当たらなかったのは、佳主馬がそうしなかったからだ。
「ってか、佳主馬くんちょっと寝る?」
「なんで?」
 にこにこと笑う佳主馬は、どこかハイだった。それが徹夜明けのせいなのか、それとも急ぎの仕事が無事に終わったせいなのか、健二には判別できなかったけれど、振り子が振り切りかかっているのは解った。
「クマなんか作っちゃってるからだよ。若いからって無茶はよくないなぁ」
 今回は急遽飛び込んできた案件のせいだろうが、基本的に彼は忙しい。
なにせ、アメリカへ短期留学した時も、ずっと佳主馬、キングカズマの話題は聞こえていたからだ。海を越えて、空を超えて、話題の中心に佳主馬はいた。それはきっと、健二が想像するよりも蜜な日々を送っているということだ。
「無茶って……、健二さんに言われたくない」
 佳主馬があくびをかみ殺した。無防備だなぁと思うのはこういう時だ。
「……今回は完璧なスケジュールだったよぼくは」
 自分の行動を鑑み、反論した。嘘は言っていない。脱いだ靴を横に並べてリビングへ向かうと、佳主馬が後ろから着いてくる。静かな足音。彼はあまり足音をたてない。
「うん、知ってる。今回は、だよね」
 含みあることを十二分に承知して、黙殺した。黙って殺す。それ以上の言及もなかった。
引く時も押す時も、把握が素早い。健二も見習いたく思うが、人には個性というものがあり、得手不得手というものがある。
 明かりがガラス越しに見えていた部屋に入ると空気が寒いくらいに冷えていた。帰ってきたばかりの健二は気持ちがいいが、冷やし過ぎじゃないだろうか。リモコンで操作し温度を二度上昇させた。扇風機によって冷気は巡回している。ソファでくつろぐ前に冷蔵庫からペットボトルを取り出す。佳主馬がグラスを二つ並べた。
「仕事は終わったから大丈夫だよ。一から起こすもんじゃなかったし、ほんの手伝い。それがちょっと急ぎで、ちょっと断れない事情があっただけ」
「そなの?」
 まず一つのグラスに注ぎいれ、飲み干す。
「うん。こっちが強く出れないって知ってるからめんどくさい」
 喉の乾きを癒して改めてどちらにも入れ直す。
 佳主馬が誰を指しているのかは解らないが、厄介ごとを持ち込む人物だと認識した。健二の知らない佳主馬だ。別に遠いとも追いつきたいとも思わない。立つステージが違う。健二の得意としているものと佳主馬のそれが違うように。
「そんで勉強になるからよけいに腹立つ」
 嫌そうに呟く割に機嫌は悪くない。ソファへ座る佳主馬のもとへグラスを持って移動した。テーブルに二つ並べて置いて、座る。背中にはソファだ。もたれると佳主馬が健二を後ろから足の間に挟み込むようにして座り直した。
「勉強? ああ、誰かのプログラムだった?」
「うん。癖のあるアルゴリズムだった。……ややこしかったけど、おもしろかった」
 アルゴリズムとは、考え方だ。思考の道筋、結果にいたるまでの過程。十人よれば十通りになるといっていいくらいだ。十色は千差万別。だから読み取りにくいことも多いが、佳主馬がいうよう面白いこともあれば学びとれることもあったりする。
たとえば、100という数字をだすためには、延々と1を足して行く方法もあれば、掛け算を選ぶこともあるし、割り算でだって100を答えにすることができる。
根本で根底。
植物だってそうだ。
まず根を生やすことが出来なければ花開くことがない。
「間に合ってよかったね」
「あっちに持ち込むとかしたくないから。健二さん褒めて」
 言われて振り返る。見上げる。佳主馬が健二の首筋を触る。その手は、熱い。
「……だいじょうぶ?」
 ふっと息をぬくように笑われた。
「褒めてって言ったのに。そんな答えが返ってくると思わなかった」
「だって熱いから手」
 佳主馬の指が皮膚をなぞる。体の奥からぞくりとした感覚が湧き上がる。
「うん。健二さん、褒めて?」
「……明日、何かわかってる?」
 細められた目は捕食者のそれだ。ひくりと喉がうごく。蛇は蛙を眼差し一つで捕まえるという。あちらは生死をかけた冷たい場面だが、こちらは掻き乱される熱だ。
 相手は未成年、健二よりも四つ年下の大学受験を控えた高校生だ。貴重な夏休みという自由時間を勉学に費やさず、今まで通り帰省という使い方を選べるくらい余裕を持っているが、同じ年でもなければ、年上でもないのに、この様だ。
 目が離せない。手が離れない。
「うん。だから、」
 目も離せない。手も離せない。
丹念に指先で撫でられる。浮いている血管をことさら撫でられてぞくっと駆け上がってきた感覚を止められない。
佳主馬の目は、強い。それは意志の強さで、今はとても艶めいていた。
「あ、あの、準備! 佳主馬くん準備は!」
 黙って見下ろされる。そらせなくて見つめる。満ちているのに足りない目だ。
「……まだ、だけど」
「じゃあやらないと!」
 佳主馬の意図にお引き取り願おうと繕い続けた。
健二だって、今日じゃなければやぶさかじゃない。でもだって。疲れ果ててしまうのも事実なのだ。基礎体力の違いがものを言う。
 話題の転換も試みた。
「新幹線のチケットもあるし、お土産も買ってきた。なにか不足はありますか、池沢くん」
 早口になってしまったが仕方あるまい。
「……なにもないです」
「不足はなくても不満そう」
「僕も一緒に買い物行きたかった」
 ふてくされた様子に、健二は思わず吹き出してしまった。佳主馬の思惑は健二のそれにのっかって四散した。
 佳主馬はばつが悪そうに視線を動かしてしまった。残念。
「仕事って大事だよね、実業家さん」