さわ、と葉のずれる音が優しく包んだ。うっとうしい熱だけではない爽やかさが侘助を通り過ぎていく。
日本特有の夏の気配がそこらかしこで息づいていて、それは懐かしさを伴った。
侘助の拠点はアメリカだ。研究所との関わりも、存分に実力を発揮できる環境もある。しかし、帰る処は違う。そう気づくまでが長くて遠かった。
背中に当てていた幹から体をずらして、寝転んだ。ぼこぼことした根はあまり気にならなかった。
緑の気配が濃く、自然との距離が近い。木陰であるため太陽の眩しさからも逃れられる。茂った梢の隙間をぬって、きらりと透ける陽光は夏の日差しだ。
いくら木陰とはいえ、暑いことに変わりはないのだが不快ではなかった。風があるからだろうし、別の心理的要因があるせいかもしれない。
もう何年も訪れていない田舎に戻れるようになった、転機となった夏を思い出す。
色々とあったのは確かなのに、終わってみればありふれた話だった。規模が少しばかり大きくなりすぎた感はあるものの誰だって考えたりするだろう、自分が望んだことくらい。
(いい年になってるってぇのに迷子だったってやっと自覚したとか。なんだそれもう……もう)
偲ぶほどの過去ではない夏はまだ新しく、けれど続いて来た歴史の一つだ。陣内家は自分たちへ繋がっている軌跡を語ることを好み、だから先祖の合戦のように後に伝えられるのかもしれない。
一番の立役者は親族の誰でもない彼女だと、継がれていく、きっと。
あの場に、彼女がいなければ今はない。
今。大切な現在。遠回りしてやっと辿り着いた今日。
本家の母屋から伸びている道は手入れされ、歩きにくいことはないが当然舗装などない。季節柄、伸びゆく緑は勢いを増していた。
さく、と足音がする。風に葉が揺れた。木々のざわめきへ紛れ込むような静かな足音を、しっかりと耳は捕らえていた。
音のする方向には、足下を確かめるように踏みしめる彼女が居た。侘助に気づいた様子はない。さくさく。考え込み、どこを見ているか分からない表情。さく。
少年のようだった彼女は、少女を通り過ぎて女性らしい。
姪の婚約者という触れ込みで訪れた彼女は、その先入観と思い込みの結果、一族の大半が性別を見事に間違えてしまった。見抜いていたのは自分も含めて数人で、けれど無理はない中性的な雰囲気を彼女、健二は持っていた。
オズを介して連絡は時々交わしていたが、ほぼ一年、会わなかった。短いのか長いのか分からないその期間に、彼女は柔らかな雰囲気をそのままにして、変わった。
人を変えるのに時間は有効な手段の一つで、さらに言うなれば喜怒哀楽といった感情も効果的で、感情は愛に根付いて居る。その根拠は侘助自身だ。心の持ちようで人は変わると理解していた。
(例えば、蛹が羽化して蝶になるように?)
寝転がるまで背もたれにしていた幹に張り付いた抜け殻。暗い地中を抜け出して明るい空を目指した蝉の幼生。それは主が飛び立ったあとも細く頑丈な脚で残っていた。
もう誰が見ても少年だと思うことのできない彼女はさくさくと近づいている。
本人が偽ろうとしたところで難しく、男女の体格の差はこれからより顕著になる。
今の空気そのままのカラリとした気持ちで侘助は口角をあげた。
どこかに甘さを潜めた成長は健二らしい。
(……そんな華やかなもんじゃねぇな。むしろその辺にある草が花咲かしましたのが似合いだあれは)
手近に生えていた名も知らない野草の葉を千切り、離す。ぱらりと落ちた。水気が残るがすぐに乾いた。
まだまだ子どもだと思っていたら足をすくわれるに違いない。
彼女はそういうところがあると、侘助は知っていた。なにせ最後まで、自分と共に諦めなかったのが健二だ。
意外に思いもしたが、後で聞いた話で納得をした。あの懸命さに理由がついた。同じように、失えない処になっていたということ。
それでもどうであれ、健二が諦めなかった、ただそれだけで自分たち一族は救われたのだ。助けられた。
心ここに有らずといった様子で向かっているのは裏山で、しかしそこを目的にする理由を考えてみたものの思いつかない。気にかかり声をかけた。
「おーい、健二ー?」
通り過ぎて、足音が聞こえなくなる。
そのまま行かれてしまったかと思っていたら、引き戻して来たらしく今度は近づいてくる音がした。
「侘助さん……?」
何度も立ち止まり、探しているような、そんな歩み方と声だ。
「おう。すぐ近くに居るぜ」
どこに、と言いかけた健二が、視界の下でにやにやと笑っていた侘助を見つけて怪訝そうに尋ねた。
「……なんで根っこに挟まれて?」
シシシ、と笑って片手をあげる。地面の上で一番安定したのがそこだっただけだ。
「久しぶりだな健二。なにやってんだ?」
身を起こして、あぐらをかく。
「なにって……。……え? 侘助さん?」
健二はぱちぱちと瞬きを繰り返して、辺りを見渡す。その様子はまるで狐につままれたようで、どこにいるのか分からず歩いていたのかと先ほどの表情に納得をした。
しかしいくら健二が周りを見ても屋敷の裏であることに違いはなく、侘助に向き直った。
思考を切り替えることにしたらしいが、なんとも言いがたい表情を浮かべている。
「……侘助さんこそ何してるんですかこんなとこで」
「なにやってるように見える?」
「……暇を持て余しているように見えます」
「シシシ、それもまぁ、間違っちゃぁいねぇなぁ」
笑い、手招くと少し考え、近寄りながら健二が話した。
「でもいつ帰ってきてたんですか。ぼく、見ませんでした」
「少なくともおまえよか早かったな。朝だろ、こっち着いたの」
「はい。あれ、お昼にも居ませんでしたよね? みんなでお昼食べたんだと思ってたのに」
責めるよう口を尖らした言い草に苦笑を浮かべた。
「晩飯とかなんかある時の飯なら一緒に食うけどな、毎度毎度それだとしんどいだろうよ」
「でも、人の多い食卓は楽しいじゃないですか」
「やっかましいけどなァ。うちはなんせ集まるのが好きな人間が多い。まぁ突っ立ってるのもなんだし、座れば?」
ふわりとしたスカートをおさえて健二が躊躇いなく座った。汚れるかもしれないといったことに頓着がないようで、それが自然なのだろう。
空にうすく雲がかかる。蒸気を靡かせて駆ける飛行機。
健二が幹へ手を伸ばし、蝉の抜け殻をそっと外した。
割れた背を確かめ、中身のない脚を見て、その付け根を指でなぞる。
ざああ、と少しだけ強く風が吹いた。
殻を持たない手で健二がばらばらと流された自身の髪を押さえる。それは記憶にあるよりも伸びていた。
「それで健二はなにやってたんだ?」
「……なにしているように見えました?」
「質問に質問で返すなって習わねぇのか最近の学生は」
「恥ずかしながら文系の成績はあんまりよろしくないもので」
「志望校が俺と一緒だって夏希が言ってたんだが」
「だからさっきの侘助さんを見習ったんですよ、ぼく。後学のためにも侘助さんの学生時代ってどうでした? 教えてください」
にこにこと笑みを浮かべる健二に虚をつかれて、記憶の引き出しを漁ることになった。
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