わぁっとはやし立てるような歓声が青い空に広がった。宇宙の向こう側を思わせる空に雲はなくて、額に汗で髪を張り付かせた子どもの甲高い声と蝉が彩りを見せる。
夏希は一人、縁側で足をぶらりとさせてうちわであおいだ。両手を後ろにやり身体を支える。いつでも外へ行けるように、と履いたサンダルはつまさきにかろうじてひっかかっている。襖や障子を開けている屋敷は風を留まらせることなく吹き渡り、涼しい。反転、外は太陽が中天より燦々としている。影は足下に忠実。
中庭を陽光が独壇場、簡易プールに水を溜めようと真吾が持つホースから水が勢いよく吹き出している。乾燥している大地はしぶきですらどん欲に吸い込み、早いところではすでに乾き始めている。プールのそばの地面はそうはいかず、泥と化している。
裕平がホースに手を伸ばす。プールの周囲をハヤテがハッハッと舌を出し体温調節しながらうろうろとしている。水が溜まりきっていないとはいえ、足を浸すほどなら溜まっているプールに入っているのは真緒と恭平だ。手で水をすくい、頭からかぶっている。光が水の中を通ってゆく。
ホースを手放した真吾がたっとハヤテに向かって走り出し、前足をあげてきょとんとそれを見ていたハヤテはホースを構えている裕平を見て、逃れるように一飛び距離を取った。そこへ、かばうように加奈が立ちふさがる。
庭に比べると屋敷内は随分と暗い。分厚い屋根は心強い影の主だ。
高校生の時に比べると、随分と時間の過ぎ去り方が違う。本家で過ごすのもまた、全国に散らばっている親族と会うということで忙しいと思っていたけれど、それでも大学生活に比べれば随分とゆっくりとしたものだ。この時間が穏やかだということを、自分が忙しく動いていなければ理解できなかった。とはいえ、去年よりも大学生二回目の夏休みともなれば戸惑うばかりではない。
ちくたくと時計の音の代わりに、夏虫のささやき。時折、強すぎない柔らかな風がひらりと結わえていない髪を乱してゆく。
「夏希せんぱいー?」
いくつか向こう側の部屋から、探すような声がかけられた。
振り返らずに、力を入れていた腕を伸ばすと自然と仰向けになる。ずっと明るい庭を見つめていたせいか視界が明暗の変化についてゆかず、少しばかり目眩のように天井が見えない。首だけそちらへ向けるとばらっと髪が廊下に散らばる。結べばよかったと思えどすでに遅い。
「はいはーい」
声はまだ姿の見えない可愛い後輩だ。この家で夏希のことを先輩と呼ぶのは健二以外にいない。
まもなく廊下で寝転んでいる夏希を見つけた健二は、見つけた安堵からか柔らかな笑みを浮かべた。夏希が高校を卒業し、また健二も一年遅れで大学へ進学したが、学校が違うようになってしまい顔を会わせるのは年に数える程度になった。だから久しぶりだ。
結局、一度も夏希への呼び名は変わらなかった。
ずっと、せんぱい。
「どしたの健二くん」
「万理子さんが呼んでます。……なにしてるんですか?」
夏希の横に健二が座る。ちょっと形の崩れた正座だ。健二は外の子どもたちへと視線をやる。夏希の足下から向こうの庭では水の弾ける音が賑やかしくなっていた。
「休憩。おばさん? え、なんで?」
「と、言われても。ぼくただ伝言預かってきただけなんで」
健二が夏希のそばに座った為、距離が近くなった。見上げるほど高くもない。声の響きはどこか困っている。今更ながらこの声音をよく聞いていたなと気づいた。懐かしむほど昔のことではない過去だ。
「あはは、そうよねぇ」
気づきはしたが、それに対しての感想は深く胸に沈めてしまう。困っている声を良く知っている意味なんてものはどう考えたって分が悪い。
彼が屈託なく笑っているならそれでいいし、夏希だって笑えている。先輩の位置は譲らない。
曾祖母もやっかいな言葉を残してくれたものだ。それが夏希に向けた優しさや願いだったとしても、恨まずにはいられない。言葉に不自由しがちな平成生まれを甘くみないでほしい。込められた意味に気づかなければ表層をなぞることしか出来ないではないか。「幸せに」だなんて。そんなの。
「おばさん何してたー?」
呼ばれる覚えがないだけに、予想をたてようと尋ねる。夜に向けての宴会の準備にしては昼餉を終えたばかりだし、今日はまだ来ていない親族の到着日でもなかったはずだ。
買出しにしたって、わざわざ夏希を呼ぶには理由として弱い。なにせ、運転技術に不安をもたれている。
「母さんとか直美ねえさんとお茶飲んでたけど」
不意に響いた声は、夏希でもなく健二でもなかった。声のしたほうへわずかに頭を動かす。廊下は板張りで、当然ながら弾力はない。頭皮に髪がじゃりと押し付けられると固さが際立つ。
「佳主馬」
自然光のみの明るさにすっかり慣れた目は、健二の後ろにいる又従兄弟の姿をはっきりと捉えた。健二のような柔らかさが伺えない、だけどただ睨まれているわけでもない、複雑な視線に、気圧される。なによ、と口の中で呟いた。
「あれ、佳主馬くん?」
夏希は頭の位置を少し動かすだけでよかったけれど、健二は振り返り、名前を呼ぶ。
健二の様子から佳主馬がいることに気づいていなかったようだ。夏希は寝転んでいたおかげで誰かしらやって来ていることは解っていた。床がわずかに振動がしていたからだ。ただ、それは佳主馬だとは思わなかった。だけど、不思議にも思わなかった。むしろ健二がここにいるのなら、当然だとすら思った。夏の短い期間だけ訪れて、もう佳主馬ともまた健二ほどにしか顔を会わせることはないけれど、三年前の夏以降、可愛い後輩の近くには又従兄弟がいることが多い。
それはさながら悪者を倒して平和をもたらした憧れのヒーローを追いかける子どものようだ。
佳主馬が健二に懐いている。これは陣内家の大人の、共通の認識だった。
また、多くの人が集う陣内家において年長者が年若いものの面倒をみるのもまた共有された認識であり、よってこれはそう奇なことではない。
単純に健二をヒーローとするには、その響きが持つ凛々しさが健二に重ならない。凛々しいというなら、佳主馬のほうがよっぽどだ。
だけどあとを追いかけている。まるでインプリンティングされた行動のように。ああ、そうか。
「ひよこか」
閃いた答えを呟く。黄色くてふわふわの、縁日でたまに見かける雛鳥。
「は?」
健二のそばに立つ佳主馬から冷たい返事とぬるい視線が降って来る。脳裏に浮かんでいた生き物がはかなく消えた。まったく可愛くない。現実は非情だ。
加奈が真緒の後ろばかりを着いて行っている可愛さとは真反対だ。あれこそヒヨコという表現が相応しい。もしくは、夏希が侘助のあとを追っていたのもまた、同じように見られていたのだろう。
「なんでもなーいー。わかったわよ行くって言っといて」
だらりと寝転んだまま手を振る。何をしているのかは解らないけれど、用があるのは確かなことだ。
ともかく、ここで子どもたちを見守るよりはまだ刺激的かもしれない。
「え、やだよ。そっち戻んないし。お兄さん何してるの?」
すげなく断られた上にそっけない態度に思わず呟く。
「かわいくない」
言ったら健二に笑われた。子供染みているとも自分でも思った。少し頬に熱が集まる。
「先輩探してたんだよ。佳主馬くんは?」
「ふうん。納戸に戻ろうと思って。……お兄さんもくる?」
「う、あ、いやいや、夏希先輩は?」
誘われるまま佳主馬が差し出した手を握り立ち上がろうとしたところで、戸惑った様子で夏希を見下ろした。その姿に笑みが浮かぶ。逡巡の原因はすぐに思い当たり、夏希は気兼ねなくゆけるよう、ひらりと手を振る。いつか周りに気を配りすぎて健二の手元には何も残らないんじゃないかな。
「いってらっしゃい」
「でも夏希先輩は」
「ちゃんと行くわよ。子どもじゃあるまいし、大丈夫」
「んじゃ、行こ」
両手で佳主馬が健二の手を引き立ち上がらせる。
寝転びながら歩いてゆく姿を見送った。廊下のさきにあるのは、夏希には全く理解の出来ない機械の園だ。仮想世界にアカウントを作ることは、それをしなければ日常生活がままならないからだ。でなければ苦手だと解っているのにアカウントなんて作りたくもない。公的機関の手続きをオズで出来るのは便利だけども解らないことがあればいちいちヘルプを呼ばなくてはならないし、ヘルプの呼び出し方にも迷うくらいのユーザーレベルからすると役所の窓口でスタッフを実際に捕まえて書類を作る方がどれほどわかりやすいことか。
秒針がわりにしている蝉の鳴き声は、実際のところ時間の進み具合はさっぱりわからない。
縁側の外に出している足がじりじりと熱い。太陽が空を移動している。
健二と佳主馬の姿はすぐに見えなくなった。
佳主馬の位置が健二で、健二の位置が夏希だったころは一瞬で過ぎ去り遠い過去のようだ。ほんの三年程度の日数が今日との間に挟まれているだけだというのに。
三年前の夏の、それももっとわずかな日数のこと。
ケンカらしいケンカもしたこともなかった。当たり前のように夏希は健二に甘えていたし、健二はそれを許容していた。今だってそれは変わらない。
あのときの自分の気持ちは、どうだっただろう。夏らしく暑かったことは覚えているのに。
明確な始まりはなかったの等しい。なのに終わりだけがひどくはっきりとしていた。別れとも言えないはじまり方だった。失った関係を取り戻すことはないだろう。はなからそういうものではなかったし、失くしたものに惜しいと思えず、そうであるならば取り返したいとは思えまい。
健二が笑っていて、夏希もおなじ。長い間不在だった伯父も戻って来たし、大きなトラブルもないから親族は皆笑っている。なら、それでいいじゃない。だってこんなにも暖かな気持ちになれる。
確かに愛情は互いにあったのだ。それが恋ではなかっただけで。
ぺったりと背中を廊下にくっつけていると、夏希の体温が板へ移ってゆく気がした。背中がぬるい。わずかに場所をずらす。冷たさがまた背中を覆う。
湿気がないからあまり不快ではないものの、それでも気温は高いし、それにつられるように体温もあがっているような気がする。
左手を額にのせ、軽く目を閉じる。
きゃっきゃと笑い声が近い。
廊下がまた振動を伝える。どたどたどたというそれは、佳主馬や健二とは違いはっきりと存在を告げている。
健二たちが去り、まだ間もないけれど、頭の片隅に追いやっていた事をひっぱりだしてくる。万理子に呼ばれていたのだった。急いでいる様子はなかったからともかく、ぼんやりとしていたら眠い。泣いて不機嫌な声がしているなら寝れたものではなかったろうが、機嫌の良い笑い声は聞き流していても楽しい。
「おい夏希」
呼びかけにぱちりと閉ざしていた目をあけた。
この暑いのに律儀に靴下を着用し、紺色の制服のズボン。足から辿って、顔に辿り着く。
「翔太にい」
上から見下ろしている従兄弟は制帽を人差し指でくるくるとまわして、どこかぎこちなくもう一度、おう、と言った。
「仕事は?」
「呼び出しくらったら戻る」
どかりと夏希の横に座り縁側から足を出した翔太の斜め後ろ姿は、視界の差で何か新鮮だった。帽子は廊下に所在無さげに放置されている。もっともっと子どもの頃にこうやって侘助を見上げていたばかりいた。それが恋だと思っていた。
身体を起こす。身じろぎをほぼしていなかったせいか、身体が強ばっているので軽くほぐす。庭が思いのほか明るくて目が眩んだ。つま先にかろうじてひっかかっていたサンダルをぶらぶらとさせていたらそのままぽとんと落ちた。
「聞いたんだけどよ……」
ゴムの靴底が見えて頼りない。細かな砂利が挟まっている。
「なに?」
砂利石は少し力を込めれば取れそうに思えたので、座ったままサンダルに手を伸ばす。
隣の従兄弟は、ごにょごにょと口ごもり明瞭に聞き取れない。
挟まった砂利を触る。固い。土のざらついた感触。小石をつついていた人差し指を親指とこすり合わせて早々に放棄した。てこの原理を応用すれば除去できるだろうけど指をてことして利用するのは無謀だ。ヘタをすれば折れる。
腕力なら男性に負けるものの夏希だってそこそこ誇るものがある。大学で弓道のサークルに所属しているものの、渡米中はうまく訓練できなかった。言葉の壁は分厚く、学びたいことを教わる分には不自由しない程度にはなったが日常会話ではおぼつかないことも多かった。
「………あー、……なんてっかな……」
困惑しきりの声に、首を傾げる。はて。母国語もときとして怪しくなるものだ。
しきりに視線をうろうろと彷徨わせる翔太に、夏希は手にしていたサンダルをもとの位置に戻す。
ざわりと穏やかな風が木々をゆらしてゆく。
「……なぁ、あいつと別れたんだって?」
反射的にそちらを振り向くと、帽子の跡がついた短い髪をがりがりと誤摩化すように掻き乱していた。
「聞いたんだ?」
誰と、とも聞かない。夏希に限って言えばその相手は知れ渡っている。実を言えば、今回、健二が陣内家に訪れるか訪れないか、そのちょっとしたやりとりがあったのだから知る人は知っている。
「親父から」
「そっか。……そっかぁ」
法律に照らし合わせば立派な成人ではあるものの、年の功には叶わないことは多々ある。
「おばさんたちは、あいつが来て喜んでんだけどよ……お前はそれでいいのか?」
翔太を見るも、視線は重ならない。
片手に制帽がくるくると落ち着かなく回転していた。その様子に、堪えきれない笑いがこぼれる。いくつになったって同時に心配されることは心地が良いものだ。大事にされているように思えるから。
「よくないって言ったら?」
「っはぁ?! おま、まじでか。あいつ追い出してくっから!」
思いつきに帰って来たのは予想以上のアクションだった。飛ぶように立ち上がり、目を爛々とさせている。握りこぶしは追い出すというよりも殴るために使われそうだ。着崩しているシャツの裾を走り出さぬように掴んだ。
大きな声に子どもたちの楽しむざわめきが一瞬止み、すぐに再開された。
「追い出すー?」
「だれ? だれが? 翔太にい?」
「翔太にぃうるさいねぇ」
プールの水を両手で掬いこちらに投げつけている真吾と裕平に、翔太がまた叫ぶ。
「なんでもねぇ!」
服の裾を握りしめたまま肩を震わせる。笑いは堪えれば堪えるほど、息がしにくい。
「夏希! おまえも笑ってんじゃねぇ!」
「くっくっ、あっは、あははは! 翔太にい、笑いすぎておなかいたい…っ」
夏希が服を掴んでいるせいで動けない翔太は、気を沈めるように大きな息を吐いてどかりとまた座った。投げ捨ててしまった制帽を、目元からかぶる。
「……知るか」
子どもらはこちらを伺っているが、翔太が手で払うことであっというまに興味をプールへ移した。
「ふふっ、大丈夫。大丈夫だよ。なにも変わってないから」
年を重ねて大人になったつもりで、だけど、変わることがないことだってある。こんなふうに自分は愛されている。
「はぁ? だってお前、別れたんじゃねぇのかよ」
昔から夏希に対して過保護なところがあるせいか、翔太はまだ疑わしげだ。帽子をずらして見える眉間に若干のしわを見つけてしまった。
「でもさー、べつに幸せじゃなくないんだよねー」
なくして寂しいもの、ではなかった。だから不幸せにはならなかった。曾祖母の言葉は違えていない。
「なんだそれ」
「健二君、おばあちゃんから託されたんだって。あたしを幸せにって」
そして曾祖母の言葉を軸に優しさに縋った。まさに、ヒーローに憧れた子どものように。夏希の幼い頃のヒーローは侘助でそれを恋心だと思い、健二も対象になった。
ただ、それだけだ。それだけで、だからこそ、多分、また間違えた。おそらく、と予想する。付き合いは短くとも少々の希釈程度では薄まりようのない濃密な時間を過ごした健二は、真面目すぎたんだと思う。
「だからっておまえ……」
何かを言いかける翔太を遮る。
「うん、それにねぇ、あたし、気づいちゃった。おじさんと同じなんだ」
後ろを追いかけ続けていた子どもだった。その頃と、今。どちらも大きな違いがない。
同じ気持ちを抱いた侘助と健二を天秤にかけると分銅は等しい。
だというのに、二人が同時に帰って来た場合、どちらに先におかえりと声をかけるのだろうかと考えたことが答えになった。そう思ったが最後、男女のと前置きがつく付き合いを続ける気は毛頭なくなった。
「……そうかよ」
すっきりしない声を出す翔太だって夏希を知っている。どういうふうに育って来たのか、一緒に成長してきたのだから。
「だからいいんだよ。それよりも健二くんが来なくなるほうがよっぽどヤだったんだもん」
家族が欠けるみたいだと思ってしまったのだ。
それを恋だったというのかもしれないけれど。同級生がはしゃいで話す人たちとは何か違うような気もする。恋は素敵なものだから皆が浮かれて騒ぐ。
「ああ、そうかよ」
はああ、と大きなため息一つで、ぐしゃりと頭を撫でられた。三つの違いで気の良い兄として翔太は小学生の夏希をこうやって触れていたものだけど。
「俺だってあいつのことは別に嫌っちゃねぇんだよ。あんときゃまじすげぇと思ったしな。でも、そうか」
何かに納得した様子で一人頷く翔太は、小さくガッツポーズを決めている。はてな。
「そうかそうか。なぁ、夏希、おまえ今誰かと付き合ってんの?」
「え、ううん」
「いねぇんだな。出来たら言えよ、俺がどんなやつか見てやっから」
「……うん?」
返事とも疑問とも着かぬ声を返して、一転して晴れやかで上機嫌な翔太に首を傾げる。機嫌が変わりやすいのはモトからだけど、そこがポイントだったのだろうか。
夏希と少しの距離を離した健二は、学校で見かけていた健二とも、後輩としての健二ともまた、何かが変わっていた。そういえば、意味もわからず佳主馬が不機嫌に夏希のことを見ていたのだった。翔太と大違いだ。
「あ、わすれてた。万理子おばさんに呼ばれてたんだった」
立ち上がる。親族は皆、体格がいいから見下ろすためには相手が低くなるしかない。はからずともその状況になった。大きく伸びて、腕を腰に当てて背筋をまた伸ばす。
プール遊びをしていた子どもたちは、いつのまにかプールから出てタオルをかぶり、しゃぼんだまを作っていた。晴れた日の午後の戯れ。
肺に酸素を送り込む。夏だ。