人がひとのなかで人らしく生きるため衣食住に始まり快適な住環境を得るために必要な物は山とあれど、健二にとっての大事な物はおそらく他者とは相容れないものだ。
もちろん衣食住の重要性は認識しているし必要ともしているのだが、根底のところで手放せない物はそのどれにも当てはまらなかった。別にそれがなくったって困るわけじゃない、健二以外。
だがしかし、さて。
それを意識していたかというとそうでもなかった。そういったことを考えていようとなかろうと、笑ったり、たまには怒って、ついでに泣いてみたり、感情の発露で人は他者に認識されている。社会のなかに組み込まれている。
人がひとのなかで過ごして、人がひとと出会うのは偶然を多分に含んだ必然で、けれどそれは電子機器を介してオズに繋げば世界と、靴を履いて玄関から出て行けば社会、と、それぞれ接続されるのだから当然だった。
数ある学問のうち、数学を選んだのはそれが一番、健二の好みだったからだ。
複雑でありながら美しい。世界を解き明かすことすら可能なキーワード。人類の誕生よりも古い宇宙の成り立ちを説明でき、急激に成長したオズシステムを支えている。
数学にのめり込んだのは、さて、どうしてか。
砂漠が水を吸い込むように知識を吸収したのはなぜか。
健二は数式で世界を解明したいなんて思っていない。健二にとって数学とはそういうものではなく、数字の連なりはあくまでも数式である。
父も母も、個々にだがこまめに連絡をくれるが彼らの帰る場所はそれぞれもう別のあるのだろうと、一人で住むには広すぎた自宅を思った。高校を卒業してから、あの家は売り払われた。健二は家を出た。
数学に溺れたのは、さて、どうしてだっただろう。
太陽が完全に隠れるまでのわずかな時間、空には白く細い月が気も早くにのぼっている。
秋風は冷たい。だけど寒くはない。橙の小さな星を思わせる金木犀はだいぶ散ってしまっていたが、まだかすかに甘い香りが漂っている。そして住宅の細く開いた窓からはごま油が香ばしい煮付けの匂い。
茜色の夕暮れ、影が長い。軽自動車が脇を通り抜けて行く。両手にナイロン袋をぶら下げた買い物帰りらしい主婦とすれ違った。
マンションから駅まで徒歩にして十分弱。急げば短くもなるし、今みたいにのんびりと歩けば二十分程度はかかる。健二は自転車を押していて、佳主馬は車道側を歩いていた。住宅街だから車の通りは多くない。
「健二さんと歩くのって久しぶりだ」
からからからと回る車輪、気をつけているつもりでも足にペダルが当たる。
さんざん嫌がってはいたが、打ち合わせへ行く佳主馬の見送りだ。なにか急ぎだとかで帰ってこれるかどうかも怪しいと言っていた。ネットを介して情報のやり取りは出来るが、顔を合わせ話しながら業務を進める方が効率的で、早い。が、どうにも寂しく思うのは仕方がないだろう。今日はおそらく一人の夜だ。
「二人乗りする?」
「やだ」
佳主馬が首を振った。憮然とした幼い仕草に笑いが誘われる。
「歩きたい」
佳主馬は健二に優しい。優しくされるのは大切にされているようで嬉しい。嬉しいから優しいのは好きだ。
短い距離を埋めるようにたくさん話した。埋めたはしから底がぬけてゆくのでいつまでたっても溢れない。
これが違いだ。絡めとられるのならこれがいい。
たった一つしかない答えのために過程を量産していくのは同じ、だけど選択一つするにも迷いが生まれて些細なことに好意が生まれて際限がない。これが違い。
冷たい風が吹いて、首をすくめた。
太陽はかすかな光を残して彼方に消えかけ、空は青から紺へと染め直されてゆく。ちかちかと電柱に備え付けられている蛍光灯がともった。夜が近い。電線で空が区切られて見えているがそれももう少しすれば夜空に飲み込まれるのだろう。
側溝のそばにはなぜか子どもの運動靴が落ちている。踏まないように通り過ぎたところで佳主馬が言った。
「だっこされた子どもの落とし物、かな」
「なに、あ、靴?」
「そう。僕も拾ったことあるもん、妹の靴。遊び疲れてだっこせがむのもいいんだけどさ、だっこすると足がぶらつくから靴が落ちる」
「なるほど。おにいちゃんだねぇ」
想像をしてくすくすと笑うと照れたように佳主馬は笑う。十四離れた彼らは仲がいい。
「落ちてるから拾うんだけど、さ。拾うっていえば僕にとって健二さんって拾いものなんだよね」
「はい? 落ちてたのぼく」
「うん」
駅までもう少し。駐輪場から制服を着た高校生が管理人にさようならと挨拶をして片手を振った。自転車に乗りながら器用なものだと感心した。
「落ちてたっていうか、なんだろう。でもいきなり目の前にあったよ。健二さん、落ちてるのに笑ってんだもん。見ないふりだって出来たんだろうけど……まぁ拾った後だからなんだって言えるんだけどさ」
「突拍子がないねきみは。どうしちゃったの?」
「だってなんかそんな顔してあんなの見てるから」
歩みを止めた。十字路の横断歩道は赤色で、向かいに信号待ちのサラリーマンが何人か居て、その向こうには踏切だ。
「……そういう君のが困ってるみたいだけど」
かんかんかんと踏切が降りてきた。線路をわたっていた小さな子どもは母親に抱かれて過ぎ去った。
「よくわかんないけどさ、どうして拾っちゃったの? ぼくなら人が落ちてたら遠巻きにして見なかったことにするよ。なんかろくでもなさそうだもんそんなの」
「え、無理だよそれは」
きっぱりと否定されて、健二はいぶかしむ。
「……だから、なんで?」
ゆっくりと走って来た車が脇に寄せて、車を止めた。ハザードが点滅する。
心底不思議そうな佳主馬に見られていることに気付き、何か言いたげな佳主馬を視線で促すとため息とともに手を伸ばされた。
「健二さんが落ちててね、僕が素通りって頭沸いてるとしか思えない」
「………ぼくもだけど佳主馬くんもよっぽどだなーって今思った」
健二にとって数学とはなんだったのか。
ただ好きだというだけにしては溺れこみすぎた、数字が連なり広がる海だった。