年に一度のこの季節をチョコレートシーズンと称して買い込むようになったのは確か高校生の頃だ。
おたく部と落書きをされるような物理部所属で、確かに人付き合いも上手いほうではなかったが、そういったことに無関係ときめこめるほどの無関心は装えない。なにせ健全な男子高校生である。
異性とのあれやこれやに親友ほど興味はなかったが、まぁ、健二も男である。チョコの一つや二つは欲しかった。
色々とあったせいか、たかが数年前のことがひどく前のように思えた。
ふっと冷たい風が吹いて健二はダウンジャケットへ首をすくめた。寒さをしのぐ為にポケットにいれた手は温かく、握りしめている紙袋の持ち手が少しふやけているような気さえしてくる。
厳しかった寒さは緩み始めてはいるものの、まだ寒い。二月になったばかりの春とはまだ言い難く、けれど冬がもうすぐ終わりを告げようとしているような季節だ。曖昧であやふやな狭間の時期は瞬く間に過ぎて毎日に続いて行く。
春夏秋冬、高校時代はもうすこしそれらが鮮明だった気がするがそれが大人になるということかもしれない。
もう少しで自宅だ。すぐ隣を自転車に乗ったサラリーマンがシャカシャカと通り過ぎて行った。時刻は夕刻、今日は一日家で居る予定だったのに、昼過ぎに買い物へ出かけた。
同居人、といおうかなんといおうか、健二が大切にしているもののなかでもトップクラスの相手は家族に呼ばれて実家へ行っている。見送ったのは昨日だ。物理的な距離と心は比例せず、だから健二は大切なものを得た。距離は心一つで近くも遠くもなる。だから今、戻っても誰もいないけど、健二は寂しいとは思わない。
歩みを緩めない足に紙袋があたった。中身は買い物の成果で、ある意味での戦闘結果で、だから戦利品とも言えるチョコレートたちだ。
この時期にしかないものが数多くあるので出来るだけ買うようにしている。だから自宅にはこれでもかというくらいにチョコレートがあった。種類も豊富で味は保証つき。健二と佐久間で始めたチョコレートシーズンは今では佳主馬も参戦していた。
頭脳労働を得意としていて、疲労回復には甘いものが有効である。飴やチョコレートは手軽なエネルギー補給源として常にある程度はストックされていた。そしてどうせ食べるのなら美味しいものがいい。
今頃親友も季節限定でハンターにジョブチェンジしているだろう。あいつはたまに残念な親友だと思う。
今日行った売り場にあったポップには、店舗限定、特製、謹製、はては海外のブランドが特別に商品をつくったと二つで数千円するものが目玉として並んでいた。ほかにもネタに走ったパッケージや笑いを誘うキャッチコピー、見るからに苦そうなカカオ含有量は大人向けだろうしチョコチップが彩るクッキーはどちらかといえばターゲットは学生だろう。そんなものがずらりと並んでいるのは圧巻だった。同時にカゴいっぱいにそれらを購入している女性の雰囲気は楽しそうでふわふわしていて特別で、特別というのは落ち着かなくさせて、それはたぶん恋心があちこちで見受けられるからだ。
男である健二が、とも思わなくもないが大体にして人はそこまで他人のことを気にしていない。健二もあまり気にならない。
美味しい物があって買える環境に居て、ほかに何を願えという。
電車を降りてから自宅までは僅かだ。歩いている間にもどんどん陽は落ちる。かわりに街頭に灯りがついて、夜を照らした。
マンションのエントランスでポストを確認すると封書が入っていた。どちらも佳主馬宛だ。送り主は健二も名前くらい知っている企業だった。二通の手紙。
佳主馬はオズで贈られてくるバレンタインアイテムは流石に受け取っているようだけど、こういうイベントのときはダンボールが送られてくることもあったと聖美がこぼしていた。
健二はそれにたいして深く納得した。
それはそうだ。
池沢佳主馬としてもキングカズマとしても、そのどちらにしたって魅力的だろう。見た目も性格も。そんな彼に好かれているのかと思うと照れるし恥ずかしいけれどそれが健二のよりどころになる。
マンションの玄関をくぐり自宅の鍵をあける。
「ただいまー」
すっかり習慣となっている挨拶を口にして、出たときにはなかったはずの靴があることに気づいた。
この家に住んでいるのは健二のほかにもう一人しか居ない。
けれどその相手を昨日見送ったばかりだ。
それが健二の白昼夢でもないかぎり現実であったし、なのに奥から人の気配がしているから記憶違いかと疑ってしまう。
「た、ただい、ま……?」
どもりつつもうろたえてもう一度声を上げれば返事があった。
「おかえりなさい」
おそるおそるとリビングの扉を開くとこたつで暖まっていた佳主馬が振り向いた。空調の音が大きく、部屋はまだ暖まりきっていない。
「どこ行ってたの?」
言いながら振り向く佳主馬は目ざとく紙袋を見つけて指差したので健二は曖昧に笑って頷いてみるも、佳主馬の視線はするどい。
佳主馬がこういうときに貰ってくることはまずない。何気なく佳主馬は貰わないのかと尋ねたこともあるが「貰うわけないし」と一言で切って捨てられ返事に困った。しかし、稀に健二がバレンタインなどで貰ってくることがある。義理だろうし断るのも悪いと思ってしまうので持ち帰っていたがそれに佳主馬がこうやって過敏といえるくらい反応を見せることに気付いてからはやめた。何も言わないが、視線が物語っている。その程度なら判るくらい親しい。
佳主馬が嫌がっていることを続ける理由を健二は持たず、そしてそんな佳主馬を可愛いと思うから健二も相当だと思う。
「か、買い物、なんだけど。あの、佳主馬くん早かったねぇ」
こたつには閉じたノート。赤いボールペンと筆箱。ここまでは出る前と同じ。だが、気まずい。あくまでもいつも通りを装うとするが無駄なことだろう。
だって健二が散らかしていたものが奇麗に片付けられている。
頭を抱えたくなった。
「母さんと美佳にそれ渡されたし、早く戻りたかったの」
それと佳主馬が指差したのは対面式キッチンのテーブルに置かれたピンクの可愛い袋で、シールがぺたぺたと貼られている。大きくつたない文字で「けんじさんへ」とあるのを認めて思わず頬が緩む。その横にはおそらく健二のアバターらしきイラストとこれまた憶測でしかないが健二が居る。
「可愛いっしょ」
「うん。可愛い。ぼくに?」
「美佳の手作りだよ。健二さんのそれはなに? チョコレート?」
「そう。あとで一緒に食べようね。……そんなびっみょーな顔しなくても買ってきたのだよ。貰ってないよ、学校の人とか」
複雑そうな顔をしている佳主馬に言えば、何事もないようにふぅんと頷いて手を差し出してきたから袋を渡す。
「じゃあべつに呼び出されたから居なかったわけじゃないの? 慌てて出て行ったみたいだったけど。部屋」
台所の流し台に置いていたボールもなくなっている。計量器もない。こぼれたままだった砂糖も小麦粉も。
確かにやりっぱなしで居なくなっていたらそう思われたとしても仕方ない。
「慌ててたわけじゃなくって……」
「なくて?」
「なんかもういやになって」
「なにに?」
「チョコレート」
答えて行くうちに憮然となる。失敗の報告を喜んで出来る人間がいたら見てみたい。あいにくそれに健二は該当しない。
「チョコが嫌で? 健二さん、あれなに?」
「………なんだと思う?」
ひしゃげた濃い茶色の塊が可愛い袋のそばにあった。白い皿と対照的ですらある。
焼き上がりのときに少しだけ齧ってはみたが、見た目と食感はともかく味は普通だったからあとで食べようと思っていたのだ。
売り場にある手作りセットを見て、自分で作ればもっとたくさん食べられるのではないかと思ったのが一つ。
買ったものの成分を見て、家にあるもので作れるのではないかと思ったのが一つ。
ネットで作り方を検索して見て、自分でも作れるのではないかと思ったのがもう一つ。
そして好きな人に贈り物を、というコピーに惹かれたのが最後の一つ。
全部混ぜた結果が佳主馬に片付けられてしまったキッチンの無惨な姿という訳だ。
切るように混ぜるってなんだ。混ぜすぎない。それって混ざらなくない?
誰でもレシピを見て簡単に作れるとおもったら大間違いだと学んだ。そもそもそれで出来たら世の中、みんながプロだ。
「スポンジケーキ。の、……残骸?」
「ざんが、いや、確かにそうなんだけど。膨らまなかったし。でも美味しかった、いや美味しくもないけど食べれたから生ゴミとかじゃないからね」
「そこまでは誰も言ってないよ健二さん。ちょっとだけ食べたけど不味くはなかったし」
「食べたの?」
「うん。だって健二さんも食べたでしょ?」
当たり前のように言われては頷くしかない。
「ていうかね、佳主馬くん戻ってくるの早すぎだよ。きみが帰ってくるまでに片付けとく予定だったのに」
言い訳のようなものが飛び出た。対して佳主馬はにこにこと笑っているから余計に面白くない。
健二はチョコレートが好きだ。甘さを控えたものが。けれどじわりと溶けていくようなものが。
そしてこのシーズン、チョコレート菓子がどこをみてもあって、恋の季節だとアピールしている。学生のころよりも遠くはなったが、そういう季節だ。もう大体バレているので開き直る。
そもそも色々と理由をつけてはみたが、作ったことも無いケーキのレシピを調べて材料を揃えて挑もうと思ったのは単純に佳主馬と一緒に食べたかったからだ。
健二が佳主馬に何をしても喜んでくれるから、ただ健二が作ったものを一緒に食べたかっただけだ。
「そんじゃこれは?」
佳主馬の手にあるのは手作りセットだ。材料からレシピまで全てそろっている。そしてちゃんと売り場で確認してきた。一番簡単なものはどれかと店員に尋ねている。
スポンジケーキにチョコレートをコーティングする、という簡単に思えた戦法からは戦略的撤退をする。出来ることをしよう。
「リベンジ。佳主馬くん、リベンジするからねぼく。一緒に食べよう」
そう言うとわずかに瞬き佳主馬が嬉しそうに笑って手作りセットを健二に渡した。
「僕も一緒にやる」
健二へと渡された箱は『簡単!混ぜて作るブラウニー』と書かれたボックスで、健二は予想外の答えに笑って佳主馬を見た。