夏を象徴するような太陽が空で光り輝いていた。
正午もいい加減すぎて、夕方にさしかかろうかという時間なのに日差しが弱まる気配はない。
熱をあげた風が佳主馬のテリトリーである納戸へ訪れ、空気が流れた。緊張を帯びていると思うのは佳主馬の意識の仕業で、ゆれた前髪を払いのけて鬱陶しさを退ける。
親族が集まった夏の明るい午後だ。
納戸から距離のある大広間からだろう、恐らく。声が響いている。
子どもたちがはしゃぎ回り、笑い、泣く。大人が、笑い、見守り、叱る。それらにまぎれるようにして静かにページを手繰るかすかな音を捕らえた。
(飲み込まれる)
ぺらり、ひらり、ゆるやかに。こびりつくように捕まえてはなさない。
取り込まれたいと望んでいる。もしくは取り込みたい。あるいは。
熱望だ、まるで夏のあつさのように。だがそれをどうにか押し止めているのもまた、佳主馬の意識だ。
シャープペンシルを指先でまわした。
途中まで書いている日本語訳と課題の英文を交互に見比べて、辞書をひこうとアンダーラインされた単語を眺め、けれど電子辞書は待機モードで明かりは落ちている。
(手、を)
そう考えて、打ち消す。気を紛らわせるために下線部へ線を足した。二重線。強調するような単語でもないから消しゴムをかけた。全消去。そっとため息をついく。意味を調べなくては進まない。
頬杖をつき人差し指で辞書のキーボードにおざなりに触れ、耳をすます。
季節は夏。一から数えて七番目、最初から数えると五度目。
佳主馬がまず目標とした健二と親友の距離は、想像以上の難易度で立ちふさがった。クリアすればいいだけのエキシビジョンなど足下にも及ばない。
彼らは人生の半分以上を共にしていると言っていた。つまりあの親しさを得るには同じくらいの時間が必要ということ。納得はできずとも、理性では分かっている。悔しくもあったが当然のことだ。そうやって佳主馬は健二と過ごして来た。
もどかしく、けれど密接な時間だ。色々なことを吸収し、がむしゃらだった。短いのか長いのか、けれどやっとだと思った。
やっと。ようやく。
時折にじませていた微量の拒絶に気づいてから、あるかないかの境が酷く曖昧な透明な壁がそびえていることに気づいてから、それからやっと。
はじめは狼狽えて心臓が冷えるような感覚を味わい、健二の瞳に映る自分に気づいてどうにか立ち直り、健二がにじませていた心配を見て、含むところを隠しながら付き合えるような人ではないと思った。ならばそれは無意識だ。考えた。何がそうさせるのか。そしてやっとたどり着いた今だ。
くるり、おもちゃにされているペンは慣れたもので佳主馬の指にて安定している。
初めて本家へ訪れた健二の囲まれることへの不慣れさ。
木製の机に汗をかいたグラスがふたつ。氷はほとんど溶けていてわずかに水面でただようばかり。いっそ、そうやってただよい取り込まれてみたい。こちらは願望か。
ガラスをすべり落ちた液体は木へ染みこみ、乾きを潤すようにひたりと姿をなくす。夏の熱気ですぐに昇華し痕跡さえなくした。その様子はまるで、満たされた消化だ。
かさりと紙がこすれる音が聞こえて、振り向きたいのを耐える。
挨拶を終えた健二は当然のように納戸へ来て、佳主馬を気遣いつつも居座った。いろんなことにかこつけて連絡を取り続けた佳主馬の成果だが、暇つぶしに提供出来たのはパソコンか課題しかなく、健二はアナログを選んだ。
背中にも目があればいいのに、と考えて、バランスを失っているのは自分だと自嘲した。
眩んで道を見失い踏み外して踏み落ち、生れ落ちた。
健二しか見えなくて、それは生物的にいうと全く繁栄できず、見失うべきではなかった道こそが正しいとよく知っている。けれどそれでは望んでいるものが手に入らない。正否を必要としていない。盲目になるのが恋ならば、眩むのもまた道理。
来て早々、驚いていた健二の表情を思い出す。
きっと本人でさえ気づいていないだろう。意識せず、けれど、佳主馬には見えてしまった。些細な変化を見取ってしまった。
ペンが空気をまわす。
課題に向かう気持ちはとうになくなっていた。
年上の従兄弟よりも親しいと言えるのはいろんなことにかこつけて連絡を取り続けていた佳主馬のたゆまぬ努力の成果で、だから気づいた。呼びに来た妹を思わず退けようとしたくらいの衝撃に、寸前で踏みとどまれたのは真緒の一言だ。
健二は気づかず、佳主馬はそれに意識を奪われた。違うのはたったひとつ。
(僕を見てあんたはほっとしたんだよ)
到着するなり一族の子どもに囲まれ賑やかな歓迎を受け、なのに佳主馬を見てそんな変化を。
告げればどういう反応をするだろうかとも思うが言わない。口をつぐむ。言葉をなくし、意味をなくし、ただ熱だけが溜まる。
蝉が静かに鳴きだして、子どもたちの声がしなくなっていることに気づいた。朝からずっと騒いでいたので昼寝でもしているんだろうと見当をつけた。妹も良く力いっぱい遊んでふいに眠りに落ちている。
またページを手繰る音。おと。聞き入る。健二から見える後ろ姿だけでは真っ当に勉学を励む学生の見本として通用するはずだ。思考が見えなくて良かった。
重なっていない感情は仕方ない。一方的に喜び、同時にばつの悪さを覚えているだけだ。同じことを思えなくてごめんね。ゆるむ口元を押さえる術を佳主馬は知らない。
そのときの玄関の向こうに広がっていた印象的な青い空。
佳主馬は忘れない。
「あ」
規則的にまわしていたペンが回転しながら机上を滑って行く。こん、っと軽い音を立てすべり正面の本棚に当たって止まった。
「ん? どうしたの? 終わった?」
佳主馬の声に反応した健二が咳払いをしつつ聞いてきた。ずっと黙っていたからか、かすれた声。
「まだだけど今日はもういい。夏休みまだあるし」
背筋を伸ばし座布団の上を回転して向き直り、氷が溶けきったグラスを渡せば湿らせる程度に健二は含んだ。佳主馬も口を付けて予想よりも冷えていたことに喜び、腕を伝うグラスのかいた汗はシャツで拭う。
本棚にもたれるようにして座っていた健二の膝に開かれていたのは佳主馬の課題で、答えは書き込み済みだ。ぺらりとめくられたのを視線で追いかけた。佳主馬の文字で埋められたノートに古い日本語で書かれた物語。
「健二さんこそ暇してたんじゃないの? そんなの見てて面白かった? パソコンなら貸したのにさ」
机の隅に置きっぱなしのノートパソコンを視線で指すといいよと首を振られた。陣内のハイスペックマシンを勧めなかったのは意地だ。誰がわざわざ離れるか。
「もう古文すっかり忘れてんだけどね。ありおりはべりとか。でもほら、答えあるから」
「……あってるかは知らないよ」
「それは。ええ、と。ぼくもちょっと……」
笑う健二を見て、ふっと笑い返す。
大学受験を来年に控えた身としては夏休みと言えど疎かにするわけにはいかない、と持って来た参考書や問題集は納戸の隅に積まれている。
「ねぇ、なんでこんなにいっぱいあるのに数学じゃないの? 古文って。あとなに、歴史も見てた? 物理とかじゃないの見てて楽しいのってさ」
横着をして立ち上がらず膝立ちのまま移動して、ざらりと崩すと参考書が出て来た。課題プリントも。取り出して健二の膝の上に投げて乗せる。
「これ」
佳主馬の動きをきょとんと見ていた健二が渡された本をぱららとめくりながら言う。
「あはは、ぼくがそれやり出して止まると思う?」
「高校数学程度ならいくらなんでも」
視線から逃げるように健二は黙って遊んでいた数学の問題集をきっちりと開いた。
「健二さん?」
「……んー」
生返事と明らかにわかる答えを返して問いを指で辿り出し、とても楽しそうな様子に移り変わっていく。ある意味予想通りの健二に佳主馬もつられて笑みを浮かべ、聞く。
「健二さん、懐かしい?」
「懐かしい? ……あー、そうかも。そうだね。もう今は見ないから、こういうのは」
穏やかに言う健二の、優しい笑みに強さが隠れていることを佳主馬は知っている。キングと呼ばれていた自分が圧倒されるものがその内にたしかに秘められている。
(あ、まず、い)
ふと、動く指先に吸い付くように視線が固定された。
問題を見つつ、式を指で書いているのだろう。さらりと紙上を滑る。
左手は考えるように口元へ。
体温のなさそうな皮膚。
骨張ったゆびさき。
「佳主馬くん?」
夏の空気が満たされている納戸。
「おーい。佳主馬くんってば」
健二の不思議そうな声。焦りもせずに、声音に宿るのは純粋な疑問でそれが佳主馬との温度差だ。
思わず触れた指先の温度は佳主馬よりも温かかった。感じる質量。
触られようと頓着しない健二へ言いようのない気持ちが沸き上がるが、現実感はあまりなかった。熱が飽和してしまっているのかもしれない。測りきれない熱量。
「ねぇ」
指先を握ったまま、存外強い声が出た。健二が首を傾げる。見えているのにぼやけているようで、いつか言われた言葉が脳裏でよみがえる。
熱病。
まさにそうだ。浮かれて浮かされる、熱で浮いている。熱に浮かされている。そうとしか言いようがない。
外の熱と同じ、ゆらりとこれは夏の熱だ。八月にもまだなっていない。
「僕さ、あんたと同じ年になったよ」
「へっ?」
そっと爪をなぞった。形が良くて奇麗で硬い。
「僕が健二さんと会ったとき、健二さん17だったでしょ。高校二年で」
同じところに立っているように見せかけて、佳主馬と健二の間に立ちふさがっているものがある。狭間かもしれないし、無色透明な壁かもしれなかった。曖昧な物ではなく確固として存在している。
「あ、そっか、そんなになるんだもう」
思い出すように健二が続ける。それだけの時間が過ぎていた。
「ああ……、今だから言うけどこんな子がいるのかって思ったんだよあの時ね」
とろりとした熱を肌に感じる。名残を振り切るように、離した。物足りない。
「おにいさん」
「はい。……そう言われるの久しぶりだなぁ」
健二が笑う。呼びかける、今度は名を呼ぶ。音に力が宿るのなら、おにいさんでは駄目だ。
「健二さん」
「どうしたの?」
「……俺はね、」
手を床につき、覗き込んだ。瞳に健二が映るように佳主馬の熱が移ればいい。一つを分け合うように。
「おれは?」
眼差しを受けて続きを待つ健二の表情から伺い知ることの出来ない部分に割り込みたい。
嫌われていないのは知っている。好かれているのも。それでよくで、それでは到底満足できない部分だ。
茜指す夕闇の前触れが開けたままの戸口から差し込む。
言おうと思って、あけた口をすぐに閉ざした。つぐむ。眩む。
言葉が見えずに、意味を仕舞い込む。
(言い続けてるんだけどなぁ)
本当に言いたいことを隠して告げる。
「健二さんとまたここで会えて嬉しい」
面食らったような健二に微笑む、夏の夕方。
>>>目眩 3 五ねんめの なつ