静かの夜を歩く

 

 

 大広間から納戸の距離を静かに歩いた。
佳主馬の髪を風がゆるく揺らす。夏特有の熱をもった風で、名古屋のそれほどこもっては居ない。
木々が夏の夜風に吹かれてざわめいて、それから小さな虫の音が聞こえる。
 星が輝く夜。雲ひとつなく、綺麗な月が夜空に浮かんでいる。あらわしが持っていた熱で雲はすべて蒸発したのかもしれない。雲は蒸気の塊だ。
涼やかな風が渡り廊下を吹き抜ける。

 足を止めて、縁側から夜を眺めた。
空を見上げる。
紺色の空を見た。星があるから暗闇ではなく、明るい夜。いつもとはどこか違う夜。少しだけセンチメンタル。
 年に何度か訪れるここは、今までは何かを思うところではなかった。煩わしく騒がしい場所で、それから迎えてくれる人がいるところで、もっというとあまり顔を合わせることのない一族と会える場所で、それを曾祖母が嬉しげにそして誇らしげに微笑んでいるところであったのだ。

 何もかもが早すぎた数日間のことを思い返していく。それは何度も何度も繰り返して思い返した内容ではあるのだが、回を重ねるごとに詳細であるし、なおかつ自己解釈が毎度付け加えられていっている。
思い出せば思い出すほどに自分のふがいなさを思い知り、どうかと思う程度には混乱もしていて、まぁ。うん。事実から眼をそらしては次につなげることはできず、なにより半端はよくない。分析して解析して、それから次だ。半端なことなど、していられるものか。

 ことの始まりはいつからだったのかと思えばそれは夏希姉が連れてきた人が部屋に来たとき。そのときだ。
出会いからしてどこか頼りなく見えた言動ではあった。だから特になにもその人には思わなかった。そこからしてやり直したいとすら思う。あのとき、だ。うまくは言えないが、あれが最初だ。

そこまでを考え、自分が廊下で外を向いたまま立ち尽くしていることに気づいた。もうそのまま納戸に行く気にもなれずなんとなく縁側に座った。
ぶらりと足をゆらす。庭の池のあたりは暗くてよく見えない。

ざわぁと葉の音がする。

 美しい空だと思う。綺麗な空だと思う。
星が浮かぶ空。静かな、それでいて人の気配を感じさせるから一人だとは思わない。
あの戦いも、一人ではなかった。真実、一人だったのは、一人だとおもっているのは。
(誰があの場で同じことが出来るっていうんだ)
自分というものを軽くとらえ過ぎではないか、と。

 あらわし落下の影響はいまだにあるけれど、それでも陣内の屋敷には人が寝るスペースは確保されたし噴出したままの温泉にも慣れた。
こんなとき大きな家も悪くないなぁ、と昼間に誰かが言っていて、同時に片付けるところも多いんじゃないかと誰かが答えていた。
夜の空気はひんやりと静かでよく音を通す。大広間で笑い声がはじけた。一番大きな声で何かを言っているのは翔太兄で、それに夏希姉が答えて、どっとわく笑い声がさらに佳主馬にぶつかる。

 (考えないとだめだ)

 いつもは考えないことを考える。人とのかかわりを考えて、上田を改めて見回して美しいとさえ思った。
感傷的になっている。
 理由はわかりやすい。陣内家にとって芯といえていた人がいなくなった。それからみんなが集まるこの屋敷が木っ端微塵になるところだった。
当たり前を当たり前と受け止めてはいけないと感じた。

 (考えないとだめだ)

 今までと同じ、ではいけない。
変化したことと、そのままでいいこと、かえなくてはいけないこと。

 行政さえ利用しているOZが混乱に陥った夏でもあった。
OZの混乱は、ある意味でよかった。考えなくて済んだから。
誰も言わないけれど、OZのシステムに依存したこの社会で誰か、栄のような人がいたのかもしれないということを考えずにはいられない。
この想像は、とても怖い。心臓がひやりとして握られる。

 テレビでは死亡者はいないことになっていた。奇跡的な話だ。ありえないといってもいいとさえ思う。
栄は、運命で寿命。けれど、ほかは? 運命ではあるが、寿命ではなかった場合は?
常識では考えられない現象が起きたとでもいうのだろうか。
この世界で? 68億もの人間がいて? だが、事実、誰一人として、被害を報告しなかった。
だからそれはそういうことなのだろう。文字通りの奇跡。ありえないことおきた。
あの日の出来事はすべてその一言で表せるような気さえする。あのときのことは奇跡というのならその奇跡という言葉の中にはありとあらゆるもろもろがギッシリと詰まっているに違いない。
 奇跡の大盤振る舞い。どこかでいつか奇跡が足りなくなる日がくるかもしれないとそんなことも考えた。それがあの日の奇跡の代償であるのなら仕方ないのだろう。屋敷も壊れず人の絆も途切れず、故人との別れがあんなにも明るく。あれらすべてが奇跡。

 いつもは考えないことを考える。
そんな夜があってもいい。そしてそれがこんな夜なら、なおいい。

 人は良くも悪くもなれていく生き物で、また同時にいろんな人がいる。
佳主馬は同じ年のクラスメイトには馴染めずいじめられたし、そしてOMCチャンピオンのキング・カズマには大人であることを求められた。と、認識している。
佳主馬がキングとして入った世界には子供は要らない。
大人のほうがどう思っているかは興味もなかったけれど、あまり気持ちの良いものではないんだろうなと今なら思う。もしくは背伸びを微笑ましいと捕らえられていたかもしれないと思えるのは彼と会ったからだ。
小磯健二という人を知った今なら。
子供の僕と、大人の僕。その僕が接している世界。それはその二つだけで佳主馬の世界は構成されている。作られていた。
子供らしくないから子供の世界からは省かれ、大人の中では子供らしくないと思われる。こういうものなのだと、思っていた。
だから社会というものは、良くも悪くもこういうものなのかと漠然と感じていた。
けれど。でも。
(あんなひとが、いるのか。せかいには)
佳主馬の知らない世界だった。自分よりももっと大きくて広い世界を見つめる人だった。
みんなが住む世界を、しっかりと目をそらさずに、最後まで出来ることを考える人だった。
まだ負けていないというその一言で陣内のみんなをまとめて信じさせた。なんだあのひとは。

 現状に満足をしているつもりはなかったけれど、それは本当に『つもり』でしかなかったということを悟らされた。何かを言われたわけではなく、ただ佳主馬が思って感じたことだ。 それだけに、重い。
自分にはまだまだ知らず出来ないことがたくさんあるということ。そんな当然のことに実感がわいた。
世界は広くて大きく、汚かったりドロドロしていたりもするけど、きらきらと美しかったりする。

 うん、と小さくうなずく。手のひらを見つめて握り締める。それからまた広げた。ちいさな自分の手だ。あのペンを握り締めていた手とは違う、誰でもない自分の手で、つかめるものはまだまだ少ない手。

 (あのひとは、あのお兄さんは。・・・・いや、色々つかめそうにもないなぁ、あの人)

 掴んだはしからぼろぼろ取り落としていきそうである。そして落としたものを一つ一つ丁寧に拾うのだ。
見たままであるなら、間違いなく頼れない人だ。佳主馬のほうがともすれば落ち着いてみえるだろう。すぐにパニックになるし、どもる。落ち着きもどこか足りない。

だけど、でも。

(あんな人が居るのなら、いいなぁ)

 意味不明な羅列にしか見えなかった数字を読み解いていく姿しかみえなかった。
ただの数字が意味をなす瞬間を見た。
摩訶不思議で見たこともない光景だった。
制御不能となった人工衛星のことなんて意識の隅にもなかった。
佳主馬には家族もそのときは見えなかった。健二で埋め尽くされた。思考が一点集中、意識をほかへもっていくことなんて出来もしない。それくらいに魅了された。
レポート用紙が数式で埋め尽くされ、またたくまに数字が解体されていく。
秒数にしてわずか。夏の暑さも音もすべてきえた。なにもきこえない。数字をといていく人しかみえない。
(なんだこれは)
切羽詰まったこの場面が、この人のためにあるかのように。
(なんだこのひとは)

 世界にはこんなひとがいるのか。

 こんなひとがいる世界があるのか。

 いいな、と羨んだ。同時にその世界に焦がれた。おなじところに並んで立ちたいとすら。

 

 さくりと、静かな足音がした。
真っ暗だった庭先に誰かがいたらしい。
空を見上げていた視線をそこへやると、ぼんやりと健二がこちらへ歩いてくるのが見えた。

「あれ、佳主馬君こんなところでどうしたの?」
「こんなところって・・・お兄さんこそなにしてるの?」
「池に写る星見てたよ」
「は?」
「満天の星空ってきっとこういうのなんだろうなぁって思って」

 健二が佳主馬の横に座った。熱が自分のほうへ渡ってくるような気がした。
夜の冷ややかで静かな空気をわたる。

「やっぱ綺麗だった。いいなぁ、ここ」
「・・・いいなぁ?」
「日本の夏ーって感じじゃないここ。ぼく生まれも育ちも東京だし。テレビで見たりするよりもぜんぜんいい」

 何がいいのかと聞かれているのかと思った健二が答えるが、佳主馬はそれとは違うことを考えていた。
いいなぁ。羨む言葉は、それをこのひとが持っておらず、できれば欲しいと思うからだ。
そしてなんだっていいから、この人が羨むのならそれをすべて差し出したい。
考えていることは違うけれど、同じ言葉を抱えているのならなおさら。

(うん、やっぱりだ。この人がいい)

「また来たらいいじゃない」
「そんなわけにもねぇいかないんじゃないかなぁ」
と夜に溶け込むような静かな声でいい、頼りなさげにへらりと笑うのを見て言葉にならない何かを感じる。形にならなくていらだつ。言葉が足りなくてもどかしい。

「お兄さんがこないと、寂しいよ。…みんな寂しがるよ」
「…そうだったら、いいねぇ。僕、こんな大人数で過ごしたことないから良くわかんないかも」
「そういうもんなの?」
「どうだろう。だけど、ここへはまた来れたらな、とおもうよ」

諦めるな、と強く言い放った人は、どこか諦めた顔で言った。それに壁を感じて、崩したいと思う。
けれど佳主馬はその表情をみて何も言えない。言っていいとはおもえなかった。
健二が何を見て何を感じてここまで来たのかがわからないからだ。

「来年。楽しみだね」

強くそう言えば、健二は何度か瞬いた。

「そ、そうだ、ね。うん、そうだね。たのしみ、だね」

それから嬉しそうな、笑みを。あの困ったような顔ではなく、嬉しそうなそれを浮かべた。

だから佳主馬はもういいや、と思った。
負けたことは忘れない。あれはラブマシーンに負けたのではなくて、もっとちがう何かに決着をつけたような、そんな負けだ。
そして健二のような人がいる世界なら自分は憧れた。焦がれた。欲しいと願うのではなく、手に入れたいと思うのでもなく、ただその世界を同じように見てみたい。

 夜空を見上げる。隣には健二が居る。また会えるかどうかでさえ分からない相手。

(ああ、もうなんだっていうんだ)